新宗教と放射能

11年10月17日



レルネット主幹 三宅善信  


▼ 新宗連ってなに?

  10月17日、渋谷公会堂で開催された新日本宗教団体連合会(通称「新宗連」)結成60周年記念大会に招かれて出席した。新宗連は、全日本仏教会、教派神道連合会、神社本庁、日本キリスト教連盟とともに、この国における宗教行政の所轄庁である文科省(厳密には、文化庁宗務課)に対する宗教界側の「窓口」である「日本宗教連盟」を構成する5つの連合体のひとつであり、1951年に結成された。この五連合の内、天台宗や浄土宗や曹洞宗といった伝統仏教の各宗派および各県別仏教会単位の団体で構成される全日本仏教会(通称「全仏」)や、金光教や黒住教といった神道系教団単位で構成される教派神道連合会(通称「教派連」)や、カトリックや日本聖公会といったキリスト教の教団単位で構成される日本キリスト教連合会(通称「日キ連」)の三連合体は、その構成要素そのものがそもそも「教団・宗派」といった連合体であるが、約8万の個別神社単位で構成される神社本庁は、それらの各神社を包括する宗教法人であり、法律的には、日蓮宗や天理教といった宗派・教団と同様の存在であるが、明治から1945年の敗戦までは、他の伝統仏教各派や教派神道各教団やキリスト教各教団が、文部省所轄下の「宗教」団体であったのに対して、神社は国家の統治機構の一部として内務省の傘下にあった(註:靖国神社だけは陸海軍省の傘下)という歴史上の経緯から、上記三連合と構成様式が少し異なる。

  しかし、これらの伝統宗教四連合と最も性質が異なるのが新宗連である。立正佼成会やパーフェクトリバティ教団(通称「PL教団」)といった「教団」が構成要素であるいった点では、全仏や教派連と変わらないが、妙智会のごとき法華系や松緑神道大和山といった神道系から善隣教のようなどの類型にも属さない教団まで、教義や伝統の違いではなく、単に「新しくできた宗教団体」という括りでカテゴライズされているだけである。しかも、それらの“教団”の規模は、数百万人の信徒数を誇る立正佼成会から信者数わずか数百人の弱小教団まで含まれているので、構成教団の規模や機関決定方法のあまり変わらない全仏や教派連と異なり、マネージメントが大変であろうが、庭野日敬や御木徳近といったカリスマ教祖の指導の下、戦中・戦後の混乱期に次々と勃興した新宗教の各教団が、「淫祠邪教」視された世間から各教団の正当性を主張し、日本国憲法の重要テーマのひとつとなった「信教の自由」を確保するという一点で利害を共にしたことによって、大変団結力の強い団体となった。しかも、新宗連には、巨大教団がいくつも加盟しているので、創価学会の対立軸として、選挙の際には大きな影響力を発揮してきたことは、これまでにも、新宗連の行事に民主党や自民党の幹部がこぞって列席してきたことからも明らかである。


▼ 被災地で大活躍した宗教団体

  しかし、私が今回述べたいことはこんなことではない。新宗連について知りたければ、各種検索サイトで「新宗連」の項目を検索すればよい。私が問題にしているのは、日本の社会における新宗教の位置づけである。3月11日に起きた東日本大震災では、その甚大な被害故に、被災地の自治体自身も機能不全に陥ったが、伝統仏教や新宗教の各教団もその日の内に被災地に入って救援活動を展開したことを私は知っている。例えば、大震災が発生したちょうどそのとき、多くの宗教教団が加盟するWCRP(世界宗教者平和会議)日本委員会は、同志社大学で40周年記念シンポジウムを開催中であったが、京都でも体感したその揺れの大きさにシンポジウムは途中解散となり、各教団の担当者がすぐに現地へ飛んだのをこの目で目撃している。

  通常、このような時に「力」を発揮するのは、その強力な組織力により、財的貢献だけでなく、大量の人的動員ができる新宗教教団である。しかし、今回の震災は、新宗教教団だけでなく、伝統仏教各宗派も千万から億単位の巨額の義捐金の拠出を行った。しかも、今回の震災は、千年に一度という大津波の来襲で約16,000名の死者と約4,000名の行方不明者という甚大な犠牲者が出たということもあり、大量の人的動員が必要なボランティア活動だけでなく、宗教者本来の責務である死者の弔いという点で、多くの僧侶がその本来の役割を果たすことができた。通常日本では、伝統仏教各宗派の僧侶は、檀家のケア(先祖供養)を主たる業務としているが、今回ばかりは、寺院そのものや墓地が津波で流されたり、被災地の人々の大半が、住宅ばかりか家族親族や身近な友人を失うということがあったので、日本の仏教が千年以上になってきた「行きずりの人々の弔い」という仏教本来の機能も回復した。

  16年前の阪神淡路大震災の時もそうであったが、今回の大震災でも、被災地内でかろうじて建物が残った寺院や教会のほとんどは、その本堂や礼拝堂を進んで避難所として解放した。学校や公民館・体育館といった「公共の施設」以外で、これだけ大規模に被災者を受け入れた組織は少なく、その意味でも、「宗教の公益性」は確保させていると思う。ところが、被災地以外から駆けつけた多くの宗教関係者たちの行ったボランティア活動についてと同様、宗教団体にこれらの救援活動もほとんど報道されることはなかった。ごく例外的なケースとして、津波災害の跡地で犠牲者を回向する僧侶(個人)の活動が紹介されたぐらいである。しかし、実際には、各地の斎場や火葬場で、荼毘に付された多くの身元不明者の最後の瞬間に立ち会って、読経回向した僧侶も大勢いる。また、大切な人を失った喪失感や自分だけ生き残ったことに対する罪悪感を抱いている人々に対する「心のケア」を行っている僧侶や牧師も知っている。もちろん、新宗教の各教団は皆、大変よく頑張っている。


▼ 新しい「神話」が必要

宗教家が人助けを行うということの中身は、単に物質的にその人を支援するということではなく、その人の内面から救済することであるので、宗教家の「人助け」は「布教行為」に直結している。というか、「布教行為」を伴わない人助けは本来あり得ない。宗教家の布教行為は、医者の医療行為と同じである。歌手が慰問で歌を歌うのと同じである。それを、医者の医療行為やタレントの慰問活動に文句を言う人間は居ないのに、また、メディアもこれらの活動を賞賛するのに、宗教家が本来の活動である「救済」活動を行う場合、これを無視するか批判する。私自身、多額の義捐金も送ったし、これまで二度、被災地へ足も運んだ。また、「息の長い復興」のために、単に金品を送るのだけでなく、被災地で多くのイベントを計画し、日本だけでなく世界中の人々が被災地へ行くことによって、この震災を目撃し、また、ホテルでの宿泊や地元での食事等で地場産業が活気づくように、国際シンポジウムの計画も立てた。

  特に、来年は「古事記編纂1300年」の佳節に当たるので、これをテーマにしたイベントも企画した。古事記とは、イザナギ・イザナミの「国産み」神話しかし、オオクニヌシの「国引き」神話(註:収録は『出雲国風土記』)しかり、ヤマトタケルの遠征神話しかり、古代においてこの国がどのような経緯で形成されていったかを物語るものである。しかも、これらの古色蒼然とした「神話」が編纂されたのは、近代的(当時の最先端の意)な「大宝律令」が施行され(701年)、整然とした長安の都を模した平城京が完成(710年)した2年後の712年のことである。古代の日本人は、東アジアの国際外交の華々しい舞台の中で、現政権の支配秩序を正当化する手段として“神話”を創作――厳密には、古くからあった神話の断片を現行支配者の都合の追いように切り貼り――したのである。

  そもそも、人が従来の価値観からコペルニクス的転回をして、新しいことを始めようとするとき、みんなが「乗る」ことのできる“神話”が必要となる。長年続いた徳川幕藩体制が黒船来航以来、あっという間に崩壊した時も、「万世一系の皇国」や「脱亜入欧」という神話を創り出して、近代国民国家である大日本帝国の国是としたし、大東亜戦争に敗れた時も、「民主主義」や「平和憲法」という神話を創り出して、あたかも天与の法典のごとく押し戴いて、盲目的にこれに臣従した。津波防潮堤や原発の安全神話が崩壊した現在、われわれは、数十年間にわたって皆が共通の夢を見ることのできる「新しい神話」を創り出さなければならない。その意味でも、被災地東北で、復興の狼煙として古事記1300年記念のシンポジウムを開催することの意義は大きいと思う。

  しかし、私がこの意見を提案したとき、当の東北の人たちはなんと言ったと思うか? なんと「テーマに宗教を入れてもらっては困る!」というのである。私は、かなり頭に来た。「特定の教団の布教活動をしようというのではない。宗教や伝統文化についての国際シンポジウムを開催しよう」というのである。しかし、会場である市民ホールを提供する地元自治体関係者は「宗教は困る!」の一点張りである。私は「ならば、あなた方は宗教団体からの義捐金はお断りしたか?」、「ダライ・ラマの読経回向を政教分離だからノーと言って断ったか?」と言ったのであるが、「それとこれとは別である」と、まったくお話にならない返事が返ってきた。合理的な根拠がない。


▼ 厭離穢土、欣求浄土

  しかし、これとよく似た事例が、実は今回の震災の後、各地で頻発している。それは、放射性物質(あるいは、被爆した人物)に対する根も葉もない拒絶反応である。8月京都大文字五山送り火の薪に陸前高田の松の木を使って犠牲者の霊を回向しようとしたことに反対運動が起きたり、福島県でその前年に造られた花火を用いて行う予定であった花火大会が数人の市民からクレームによって中止になった愛知県日進市の花火大会など、まったくナンセンスである。原発事故直後は、「福島ナンバーの車駐車お断り」や、福島県から他府県に避難してきた学童に対して「放射能が移るから近づかないでくれ」といったいじめまであったという。これがもし、HIV/AIDSの患者さんや特定の民族等に対して行われたとしたら、それこそマスコミは「差別だ!」といって鬼の首を取ったように、そのような言動をした人や団体を血祭りに上げるであろう。ところが、こと放射能汚染に関してはそうではない。東京都が受け入れを表明した被災地のゴミ処理問題でも、「放射能で汚染されたゴミを東京に持ち込むな!」と声高に主張している人が居るようである。テレビのキャスターなんぞも、このような科学的になんの根拠もない差別的発言に対して非難すべきであるのに、「不安な気持ちになる小さなお子さんのいるお母さんの気持ちが解りますね」なんぞとしたり顔で言ってのける。ならば、感染症に罹った人に対しても「染るからこっちへ来るな!」とか、「わが社では○○人は雇用しません!」と言うのか…! そんなことをしたら、それことアウトである。

  しかし、放射性汚染物質に関しては、それがどれだけ微量で、身体に影響がない量であったとしても、「汚らわしいもの」として忌避される。だいいち、今回の福島原発事故となんら関係のない場所でも、この地上で放射線の届かない場所は存在しない。あらゆる放射線の影響を避けて、透過性の強いニュートリノだけを検出するために、小柴昌俊博士はカミオカンデを地下1,000mの大深度に建造した話はあまりにも有名である。このことは、地球上(宇宙)のどこにいても、放射線を浴びる可能性があるということである。世田谷区で相次いで起こった高放射線量騒ぎは、かつて時計の文字盤に塗布されていた夜行塗料の残存物であったが、今回の原発事故がなければ、あと何十年間にもわたって放射線をまき散らして――つまり、通りかかった人々が被爆し続けて――いたことであろう。おそらく、CTやPETのあるような大規模医療施設の排水を調べたら、放射性物質はかなり検出されるであろう。もちろん、善良な医療施設は、高い費用を払って、放射性廃棄物の処理を専門業者に委託しているであろうが、それでも、検査のために放射性造影剤の注射をした患者が、検査後に病院のトイレで用を足したら、かなりの分量の放射性物質が尿と一緒に排泄されているのは明らかだ。

  また、地域によっても、自然状態での放射線が元々異なる。今、この原稿を書いている大阪の私のオフィスの放射線量は、なんと一日当たり6.59μSvというとんでもなく高い放射線量である。私は少なくとも15年間はこのオフィスで執務しているので、これまでに36mSvもの積算被爆している計算になる。しかし、そんなこと全く気にしていないが…。本当に被爆するのが嫌なら、X線検査やCTやPET検査を拒否すればよい。成層圏を飛ぶ国際線の飛行機もかなりの放射線を浴びるので、海外旅行も行かなければ良い。しかし、これらの被爆による発癌等の確率は、道を歩いていて車に跳ねられて死ぬ確率よりずっと低い。「車に跳ねられるのが怖いから道を歩かない」ということがナンセンスなら、現在、日本で起こっている多くの放射性物質に対するバカ騒ぎもナンセンスである。しかし、私がこういうと、「病院で使う放射線は良い放射線である」という人も居るであろうが、放射線に良い放射線も悪い放射線もない。利用する人間次第である。ひたすら“浄土”の招来を希い、“穢土”を忌避するだけでは、なんら進歩がない。

高い放射線レベルで警報がなった!

  こうして、よく考えてみると、わが国における放射性物質に対する忌避感情と、新宗教に対する忌避感情には共通する要素がある。多くの日本人に聞いてみると、「宗教にも、良い宗教と悪い宗教がある」と言うであろう。しかし、宗教には良い宗教も悪い宗教もない。自分自身がどう関わるかだけの問題である。宗教に対するなんら合理的根拠もない差別的な態度を許しておいて、この国の成熟はあり得ないと思う。

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