東北における自然災害と伝承神話

11年11月11日



レルネット主幹 三宅善信  


▼ 昔も今も、日本列島は噴火や地震だらけ

  3.11東北地方太平洋沖地震による「千年に一度」といわれる大津波によって、三陸海岸から常陸灘にかけての数百キロにわたり、21世紀の先進経済大国日本の都市や農漁村は壊滅的な打撃を受けたが、この地方で、マグニチュード9.0というとんでもない規模のプレート境界型の地震が発生したのは、約1150年前の貞観地震以来のことであると言われている。後に「貞観文化」と呼ばれるほどに繁栄した貞観期(859〜877年)は、貞観8年の「応天門の変」によって、最後の古代豪族大伴氏が没落し、藤原氏による摂関政治が確立した――千年後の明治維新まで続く、歴代天皇の外戚たる藤原北家による摂政・関白の独占という日本政治史の原型を築いた――時代であったが、この時代はまた、希に見る天変地異の時代でもあった。

  貞観3年に筑前国(福岡県)直方の神社の境内に隕石が落下(註:落下が目撃され、記録された世界最古の隕石)したのを皮切りに、同5年には越中・越後で地震、同6年には富士山が噴火し、同9年には阿蘇山が噴火、同10年に播磨・山城で地震、そして同11年に陸奥国で大地震と大津波が発生。これらの災厄を祓うために、祇園会(現在の祇園祭)が始まった。しかし、天変地異は引き続き、同13年には出羽国で鳥海山が噴火、同16年には薩摩国で開聞岳が噴火等々、日本列島は北端の陸奥(註:当時、蝦夷しか居なかった北海道は日本ではなかったし、文字による記録も残っていない)から南端の薩摩(註:もちろん、琉球も日本ではなかった)に至るまで、よくもまぁこれだけ続けざまに天変地異が起き、また、それを記録に残したものである。しかし、よく考えてみれば、平成の日本だって、平成2年の雲仙普賢岳の噴火からはじまって、阪神淡路大震災、阿蘇山の噴火、三宅島の噴火、中越地震、桜島の噴火、霧島連山の噴火、そして、今回の東北地方太平洋沖地震と大津波…と、ほぼ同じペースで、噴火・地震活動が起こっている。というか、地球の全陸地面積のわずか0.25%しかない日本列島の上で、地球上で発生するすべての地震の約10%が集中的に発生するのであるから、そもそも日本列島の地震発生率は全陸地の平均の40倍というとんでもない地震(噴火・津波)のホットスポットなのである。

  今回の大津波にしても、仙台平野のボーリングをすれば、過去五千年間に5回大津波がこの地を襲ったことが判っている(註:海岸線から何kmも離れた地点に、海砂の層がサンドイッチ状に存在するということは、定期的に大津波が発生し、その地点まで海水が浸入したことを意味する)が、日本人がその記録を文字で残すようになったのは、せいぜい千数百年前からである。それ以前のことを調べようと思えば、地質学的なボーリングをするか、考古学的な発掘――世界的には、西暦79年のベスビオス火山の噴火による火砕流で一瞬にして火山灰の下に埋もれたポンペイの遺跡が有名――によるしかない。しかし、古代の記録は、古文書などの文献によるか、もしくは考古学的発掘資料よるしかないのかと言えば、第三の方法がある。それは、神話や民間伝承と呼ばれる類のものである。古事記や日本書紀のように文字で書かれた資料を尊重して、人から人へと伝わっていくプロセスでどうしても変化してしまう口承の神話や民話の類のほうを軽視する人もいるが、それは間違いである。確かに「書かれた資料」は、その文章が書かれてからは一切変化しないが、その記録を執筆する時点で、その文書の執筆を依頼した人物――政治闘争の勝者――にとって都合の良いように、歴史的事実が取捨選択され、潤色されたものが残るからである。


▼ 古代エジプト文明よりも古い三内丸山遺跡

  2011年の11月10日、私は、青森市にある「三内丸山遺跡」を訪れた。いうまでもなく、三内丸山遺跡は、縄文時代最大の集落跡であるが、ここに古代の遺跡があるということは、既に江戸時代の初期に、弘前藩の記録に大量の土偶が出土したことから知られていたが、なんと言っても、1992年から始まった県営球場を建設するための発掘で発見された数々の縄文時代の遺構、なかんずく、2列X3列と等間隔で整然と6本並んだ直系1mもある太い栗の木の柱痕が発見させるに及んで、そこには巨大建造物があったことが明らかになり、大きな話題となった。しかも、かつては、単純な狩猟採取生活を送っていたと考えられていた縄文人たちが、栗をはじめゴボウやヘチマまで栽培し、また、津軽海峡を渡った北海道はもとより、直線距離でも400kmも離れた新潟県の糸魚川の河岸からしか出土しない翡翠の装飾品が大量に出土するなど、広範囲な交易までしていたことが明らかになり、日本史の常識を大きく変える縄文遺跡となった。

5500年も大昔に、このような巨大建造物群が造られていたとは驚くより他にない三内丸山遺跡

  しかも、炭素年代測定法によって、この三内丸山の地に縄文人たちが最初の集落を築いたのは、なんと5500年も前(古代のエジプトやメソポタミア文明が4500年ほど前から始まったことを考えれば、この三内丸山の5500年前という年代は驚異に値する)から始まり、4000年前に忽然として消えるまで1500年間の長きにわたって同じ場所で繁栄し続けてきたことは、よほどこの三内丸山の地の環境が恵まれていたことを意味する。われわれが、個性のある個人として人格を認識している最古の日本人である聖徳太子の生きた時代から現代まででも1400年間しかないことを考えれば、この1500年間という数字も驚異的な数字である。何故、1500年間同じ場所に住み続けたということが判るかと言えば、それはゴミ捨て場の層がそれだけの厚さと広さを有して、三内丸山遺跡の中でちょっとした丘のようになっているからである。相当数の人口が維持されたものと思われる。大量に発掘された墓は、大人用のものが500基、子供用のものが800基以上も見つかっている。特に子供用のそれは、細長い土器の中に握り拳大の石と共に身体を屈めて入れられており、その土器の底に穴が開けられるところからして、幼くしてこの世を去らねばならなかったいのちを再びあの世に産み出すための「人工の子宮」であったことは想像に難くない。英語でも、子宮は「womb」であり、墓は「tomb」であることから、洋の東西を問わず、古代人たちにとって埋葬は「あの世への出産」以外の何者でもなかったのであろう。

 
死者の再生を願う「人工子宮」たる土器(左)や、
様々な表情を持つ夥しい土偶(右)の存在は、
三内丸山の地に暮らす縄文人たちの精神構造が、
現代人のそれと大差ないことを証明している

  また、古代人の住居というと、縄文人どころか弥生人の住居ですら、われわれはすぐに、相撲の土俵程度の直系5mほどの地面を数十cm掘り下げて、その上に丸いテントのような形をした茅葺きの屋根を架けた「竪穴式住居」を想像するが、もし人々がそのような「地べた」で生活をしていたとしたら、その地面には当然、煮炊きをした竈の焦げ痕が残るはずであるが、大量の柱痕(つまり、そこに建物があった)が出土したが、大規模なものほど地面に焦げ痕が残っておらず、そのことはとりもなおさず、高床式の建物があって、煮炊きは、その床の上に作られた竈で行われていたことを意味する。つまり、縄文人たちはすでに、現在のポリネシア人の高床式住居や伊勢神宮のような高床式の神殿を建造していたことになる。他にも、三内丸山遺跡から発掘された夥しい数の石製のヤジリやナイフや釣り針等からして、彼らは精巧な道具類を使いこなし、海川山野の魚・獣・鳥類を捕獲し、また、発掘された植物の種や土中から採取されるプラント・オパールと呼ばれる花粉の化石のDNA鑑定からして、十数種類の植物(ドングリやクリ等の果実類)やヒエその他の穀類も栽培しており、かなり豊かな食生活をおくっていたものと考えられる。また、その夥しい数の土偶や整然とした埋葬様式は、彼らは精神的・宗教的にも、現代人とさほど変わらない感性を持っていたものと考えられる。

 
6000年も大昔に、後世の校倉造りの高床式建造物を彷彿とさせる建造物(左)と、
様々な加工を可能とする精巧な道具類(右)が多数出土する三内丸山遺跡

▼ 三内丸山の縄文集落は何故、消滅したか?

  このように1500年間も継続的に繁栄するほど諸条件に恵まれた三内丸山の縄文文化は、いつどのようにして消滅したのであろうか? 確かに気候変動が起これば、採取される動植物の相が変化することはあるが、さすがに一挙に消滅はしないであろう。また、たとえば、広範囲の交易によって天然痘やペスト等の感染症の伝搬や、この地を渡りの中継地点にしているハクチョウやカモからの新型の鳥インフルエンザ等の感染も考えられないことはないが、常時数百名はいたとされる三内丸山の人口がひとつの感染症の流行で全滅するということは考えにくい。ウイルスやバクテリアによる感染症は、決して全員が死ぬというようなことは起こらないようにできているものである。さもないと、もし、人類を絶滅させるようなウイルスやバクテリアが存在したとしたら、とっくの昔に人類は絶滅しておったであろうし、また、そのようになれば、そのウイルスやバクテリアも生き残ることはできないからである。

  しからば、この三内丸山遺跡――のみならず、道南や北東北に数多く見られる縄文遺跡群――が突然終わりを迎えたのは、別の原因を考えなければならない。異民族によって征服されたのか? しかし、東北地方で弥生時代が始まるのは、まだ3500年も未来の話であり、大和朝廷の侵略の手が及ぶのは、さらに1000年以上先の話である。そのヒントは、南九州の超古代縄文文明の絶滅にある。先ほど、縄文文化はポリネシア文化と共通点を有していると述べたが、私は11年前に『ヤポネシア:日本人はどこから来たのか?』で、「縄文人=ポリネシア人」説を展開したことがあったが、ポリネシアからフィリピン諸島→台湾→琉球列島を通って、北上してきたわれわれの先祖は、16000年前には、すでに南九州から日本列島各地へと拡散していった。当然、彼らの最後の生き残りが北海道や千島列島に暮らすアイヌ民族である。私は、2001年8月末に北海道各地のアイヌ関連施設をフィールドワークしたことがあるが、そこで見た伝統的なアイヌ民族の家と、今回、三内丸山遺跡で復元された家とが、5000年以上の時代を経てなお、あまりによく似ていることに驚いたぐらいである。

  であるから、日本列島本土における初期縄文人の最大の拠点は南九州であったことは間違いない。しかし、この地域における縄文人はある日突然、全滅することになるのである。皆さん、鹿児島県の地形図を頭に思い浮かべていただきたい。できれば、今ではインターネットで簡単に見ることができる衛星写真をご覧いただきたい。鹿児島県には、西の薩摩半島と東の大隅半島によって鹿児島湾が南北に長く伸びている。その北側から約3分の1の場所に桜島があるが、この桜島を含んでその北側に広がる錦江湾を取り巻く直径20kmほどの山並みを見て何か感じることはないだろうか? 実は、これは巨大なカルデラ湾(註:阿蘇の外輪山に見られるように、大規模な火山の爆発によって山の本体が吹き飛ばされ、クレーター状になった地形。内陸部にある洞爺湖や屈斜路湖や猪苗代湖のように、そこに雨水が溜まって湖になったものをカルデラ湖と呼ぶが、噴火場所が海岸線に近すぎたために、カルデラの一部に海水が流入して湾状になった地形も多々ある)である。もし、これがカルデラだとすると、「世界最大のカルデラ(実は、世界最大ではないが…)」と呼ばれる阿蘇の外輪山と匹敵する規模のカルデラになる。この錦江湾を噴火口とする姶良(あいら)カルデラ(湾)は、約25000年前に爆発的大爆発を起こして形成されたものである。また、鹿児島湾の出口(南端)付近の開聞岳や池田湖を含む阿多カルデラ(湾)は、90000年前の爆発的大噴火によって形成されたものである。特に、姶良カルデラの大噴火によって吹き飛ばされた火山灰は、日本列島全域はもとより、朝鮮半島からロシア沿海州辺りでも発見されているくらいの超大規模噴火だったのである。

  しかし、これらの大噴火は、まだ縄文時代の始まる前のことであったが、実は、南九州地域において初期縄文文明が花咲いていた今から6500年前に、薩摩半島の南、種子島の西、屋久島の北に当たる海域の底で、現在の薩摩硫黄島(鬼界ヶ島)や竹島(註:韓国に不法占拠されている日本海の竹島とは別物)をカルデラの稜線に含む鬼界カルデラの大爆発が起こり、その火山灰の降灰は遠く福島・宮城県境部にまで及んだ。その爆発規模は、雲仙普賢岳噴火の約100倍で、九州南部は約1mもの火山灰で埋め尽くされ、近畿地方でも数センチの降灰があった。当然のことであるが、九州に居た縄文人たちの集落はすべて埋め尽くされ、日本最古の縄文文明は消滅したのである。その後、九州に人が住むようになったのは、3500年後に稲作技術を携えて大陸から海を渡ってきた弥生人たちの登場まで待たなければならない。日本列島の中で、鬼界「アカホヤ」火山灰の影響が及ばなかったのは、東北北部と北海道だけであった。そこで、その後の縄文文明の担い手は、東北および北海道の縄文人たちになる。もちろん、彼らは再度、関東地方まで南下してくるので、日本列島は、西にニューカマー(new comer)たる弥生人と、東に先住民(aboriginal)たる縄文人が並立するという時代がしばらく続くが、圧倒的に食料が豊富な水田稲作という新技術を自在にこなした弥生人たちが縄文人たちを駆逐していったのも宜なるかなである。

  このようにして、本州の最北端の三内丸山の地に縄文文明最大の“都市”が出現するのであるが、これもまた、35km南側にある十和田湖をカルデラ湖としている火山の噴火と大いに関連する。十和田湖火山も約一万年に一度くらいの割合で、爆発的噴火を繰り返してきた。たとえ、そのような爆発的大噴火に至らなくとも、この距離で中規模な噴火が起きただけで、山内丸山の縄文集落などあっという間に、火山灰の降灰で栽培していた植物が壊滅的打撃を受けた可能性がある。場合によっては、火砕流の直撃に合う可能性もある距離である。もちろん、縄文時代は温暖な気候により、現在よりも海面が2〜3m高かった(註:「縄文海進」と呼ばれる)ため、関東平野なんぞは、現在の埼玉県秩父市辺りまで入り江が入り込んでいたが、三内丸山の地は、現在でも、青森湾まで3kmほどしか離れていないが、当時の海水位なら、三内丸山の目の前まで海が開けており、それ故、栽培植物だけでなく、豊富な魚介類にも恵まれたのであるが、逆を言えば、ちょっとした津波が襲来しても、大打撃を受けたことであろう。北海道の南岸は地震の多い地域故、三内丸山が栄えた1500年の間には、そこそこの規模の津波も何度かあったであろう。三内丸山の西側には活火山である岩木山もあるし、最も近い八甲田山とはわずか20kmしか離れていないので、噴火による直接的な影響を何度も受けたであろう。


▼ 十和田湖とはどんな湖か?

  そのようなことが気になって、翌11月11日――東日本大震災からちょうど8カ月目の日であり、「ポッキー・プリッツ」の日でもあるが――に、私は青森・秋田県境にある十和田湖を訪れた。既に紅葉のシーズンも過ぎ、観光客目当てのレストランや土産物屋も半分ぐらいは今シーズンの営業を終えかけていた関係で、観光客がほとんどおらず、なかなか良い雰囲気だった。地元の人に聞けば、原発事故の影響で、今年は中国・韓国・台湾からの団体客がサッパリとのこと…。ここにも風評被害が出ているのであるが、やたらと家族連れのアメリカ人観光客が目立った――アメリカ人の英語には独特の癖があるので、すぐに判る――ので、「どの州から来たのか?」と尋ねると、皆「Misawa Base(三沢基地)」と答えた。三沢基地は、本州内唯一の米軍・航空自衛隊共同使用基地であり、東日本大震災の際には、被災地内にある唯一の米軍基地として、「トモダチ作戦(Operation Tomodachi:米軍による東日本大震災支援作戦名)」では大活躍した基地である。

カルデラ外輪山の発荷峠から十和田湖を見下ろす。
画面右側から湖に突き出しているのが中山半島

  因みに、大震災の際にいち早く駆けつけたフランスの救助探索チームは、福島第一原発の事故にびびって、宮城県から多くの津波犠牲者が出た仙台市の沿岸部での捜索を依頼されたにもかかわらず、まったく犠牲者の出ていない本州の北のはずれの三沢基地内にベースキャンプを置いておきながら、「日本の救助探索技術は後れているし、日本はわれわれに何もさせてくれなかった」などという訳のわからない言い訳をして早々に帰国した事実をわれわれは決して見逃してはいけない。在京のフランス大使館ですら、待避して、その機能を一時、大阪の総領事館に移したぐらいだ。国際スポーツ大会等の際にフランスのナショナルチームは「le coq (雄鶏)」をシンボルにしているが、フランス人はとんだチキンである。メディアは、外国の首脳ではサルコジ大統領が震災後、最も早く来日したことを評価しているが、それとて、フランスの国策企業アレバ(Areva)社の原発事故処理事業を日本に売り込むために過ぎない。

  話を十和田湖に戻そう。私は、十和田湖を真北を12時の方角に据えた時計に例えると、7時の方角にある鹿角市の発荷峠を越えて、十和田湖の外輪山の内側へ入った。発荷峠を越えた途端、それまでまったく見えなかった十和田湖の湖面が眼前に一挙に広がった。急峻な直系約10kmほどの外輪山は、そのまま十和田湖の湖面に落ち込んでおり、外輪山と湖の間に「平野部」はない。十和田湖の最大震度327mは、約60km南にある田沢湖(423m)、道央の支笏湖(363m)に続いて、日本で三番目に深い湖(他の2つとも火山湖)である。カルデラ湖(あるいは火口湖)によくある地形であるが、洞爺湖や屈斜路湖のように、中央部に小さな島があり、それが噴火口跡である。十和田湖は、錦江湾と桜島の関係と同じように、その火口(御倉山)から流れ出た溶岩によって外輪山まで一部地続きになっている。もっと中央の島が大きくなって、流れ出た溶岩が何カ所にもわたって外輪山と接触するようになると、カルデラ湖が何カ所にもちぎれた阿寒湖(およびパンケトー、ペンケトー、ヒョウタン沼)のようになってしまう。

十和田湖には「平野部」がなく、
カルデラ外輪山が直接湖面に落ち込む

  しかし、十和田湖の場合は、外輪山の4時の方角から湖の中央へ伸びた半島は、この御倉山を含む御倉半島だけではない。この御倉半島と平行して、5時の方角から伸びた中山半島という半島がある。中山半島の先端には噴火口跡がないが、これはおそらくこの中山半島と御倉半島によって囲まれた直系約2kmの「中湖」の部分は巨大な噴火口があったと考えるべきである。私の“半島”に関する異常なまでの興味は、アメリカ人で最初の日本研究者となったマサチューセッツの名門出身の「異能の天才」パーシバル・ローウェルと軌を一にするものである。


▼ 十和田神社とは何者?

  ローウェル同様、無類の「半島好き」の私としては、この細長く湖に突き出た半島を踏破せねばなるまい。という訳で、湖畔の遊歩道をどんどん行くと、岸壁に穿たれた洞穴の入り口に注連縄(しめなわ)が掛けられ、それぞれ「火ノ神」「金ノ神」「山ノ神」「天ノ岩戸」等と名付けられた岩の「割れ目」を見つけた。私は直感的に、これは熊野那智大社のご神体(註:上五社の第一殿は「瀧宮」と呼ばれ、「飛瀧権現」たる「大己貴命=大国主命」を祀っている)である「那智の大滝」と同じく、いのちを産み出す女陰のシンボルであると見た。その気で見れば、割れ目の周りはシダの葉が茂り、いつもしっとりと濡れている。イザナギ・イザナミの男女二神の性的交わりによって産まれた神々の最後に産まれたカグツチ(註:古事記では「加具土命」、日本書紀では「火産霊」とも記される)によって、女陰を火傷して死ぬ(黄泉国の住人となる)のである。死んだ妻にもう一度会いたくて、黄泉国(よみのくに)まで行ったが、這々の体で逃げ帰った(=「よみがえった」)イザナギが通り抜けたこの世とあの世の境目にあるトンネル「黄泉比良坂(よもつひらさか)」こそ、まさに、三内丸山の縄文人たちが子宮の形をした土器に子供の死体を納め、あの世への生まれ変わりを願ったのと同じ、産道であった。その意味で、神社(お宮)への参道は、また、子宮への産道でもある。

まさに「女陰」を思わせる洞穴が至るところにあり、
それらは「神聖な場所」として、注連縄(しめなわ)で外部と結界されている

  このようなことを想起しながら参道を歩むうちに、十和田神社の本殿に到着した。社伝を読むと、「大同2年(807年)、征夷大将軍坂上田村麻呂が武運長久を祈って日本武尊を祀った」とあるが、これは数百年後の創作(註:社伝にも「その後、長らく廃れていたが、後世、建武元年(1333年)、北畠顕家によって再興された」とある)であろう。鎌倉幕府が崩壊した建武の中興の際、後醍醐天皇の皇子を奉じて、奥州経営に当たったナショナリストの鎮守府将軍北畠顕家が、自己の行動を歴史に残そうとして画策したのであろうが、おそらく、本当のところは、さらに数百年時代が下がって、神仏判然令の出た明治維新期まで繰り下がると思われる。だいいち、坂上田村麻呂はこんな陸奥の最奥部までは来ていない。この社はむしろ、修験道の盛んな時代に霊場として繁栄した。境内を彷徨いていると、「青龍権現」などを祀っていた跡がそこかしこに見られる。おそらく、湖の水神たる龍神が昔から祀られていたのであろう。ゴロゴロした岩、剥き出しの根、透明度が高いので、「どこまで深いのだろう」と思わせる十和田湖の水面…。地理的生物学的条件から、もともと魚がいなかった十和田湖に、養殖用ニジマスが放流されたのは20世紀になってからのことである。つまり、これだけ豊富な水をたたえた湖に魚が一匹もいない(註:生物学上の理由は、唯一の流出河川である太平洋側へ注ぐ奥入瀬川には、急流過ぎて魚がこれ以上遡上できない「イワナ止め」の滝がいくつもある上に、透明度が高いということは、水質の栄養価が低くて餌になるプランクトンが発生しないから)こと自体、その湖に強力な「主」が居ると想像したとしてもおかしくはない。

立派な十和田神社の拝殿と本殿は、
長年、この湖が人々の信仰を集めた証

  十和田湖の伝承を調べてみると、太古の昔、村の娘と旅人との間に生まれたマタギ(註:東北地方の山中に暮らす狩猟民)の青年であった八郎太郎が、猟師仲間のルールを破って、イワナを自分一人で独占した天罰によって、大変な喉の渇きに苛まれ、33夜も川の水を飲み続け、気が付いたときには、身の丈33尺の龍になってしまっていた。そこで、その龍(八郎太郎)は、十和田山頂に巨大な湖を造り、その「主」となったそうである。これだけなら、よくある民話(原因譚)であるが、加えて、長らくその八頭(やつがしら)の龍(八郎太郎)が「主」であった十和田湖に、南紀熊野の修験者(註:奥州藤原氏の庇護を受けていた源義経の家来である武蔵坊弁慶も熊野出身の修験者)である南祖坊が来て、神託に従って、十和田湖の覇権を争うことになったことが、この伝承を重層化させている。おそらく、都の朝廷の勢力が奥州の最奥部まで到達し、先住民(縄文人の子孫たる蝦夷)たちとの争いになったことがシンボル化されているのだろう。


▼ 噴火や堰き止めによって造られた湖

  南祖坊は、法華経の法力(註:熊野修験は、長らく天台宗の統治を受けていたので、法華経が尊重されたのだろう)を用いて、九頭龍(くずりゅう)に変身して七日七晩戦った。その戦いには、ゴジラ対キングキングギドラよろしく、双方、業火や雷鳴その他を激しく吹き合って戦ったとされているのは、おそらく十和田火山の噴火およびカルデラ湖の形成にまつわる伝承であろう。この戦いに最終的に勝利した南祖坊は、十和田神社に祀られ――ご祭神は、日本武尊じゃなかったのか?――、破れた八郎太郎は、日本海側へ流れる米代川(註:現在の十和田湖から流出するのは、太平洋側へ流出する奥入瀬川のみであるが、日本海側へ流出する米代川の最上流部は十和田湖からわずか2kmしか離れておらず、場合によっては、古代には米代川側に流出していた湖水が、火山の噴火によって堰き止められ、反対側の奥入瀬川に流出するようになったのかもしれない)を伝って逃亡した。途中、八郎太郎は、七座山の辺りで、川を堰き止めて湖を造ろうとしたが、地元の七柱の神々の使いの白鼠に邪魔されて、さらに下流まで下ったとされる。

  おそらく、この夏、奈良・和歌山の両県だけで、80名近い死者・行方不明者を出した12号台風(国際名はタラス)は、紀伊半島で1000mm以上の猛烈な雨を降らせ、和歌山県側の日置川・富田川・熊野川で氾濫、奈良県側の天の川や十津川、和歌山県側の田辺市熊野地区等で、崖崩れの土砂による堰止め湖が17カ所も出来、中には、土砂ダムの高さが100mに達するものもあり、今なお、集中豪雨時には土砂ダムの決壊による下流域への洪水が心配されているぐらいであるから、八郎太郎と南祖坊の戦いに象徴される十和田火山の噴火の際には、溶岩流や降灰によって堰き止められた川があちこちに発生し、そのいくつかは決壊して、大規模な洪水を下流域にもたらせたと考えられるので、この七柱の神々の話は、そのような自然災害を象徴しているものと思われる。この辺りには、大湯環状列石という縄文後期に造られた直系46mもの日本最大のストーンサークルもある。

  さて、米代川の上流から中流域までを追われた八郎太郎は、その後、どうなったであろうか? 衛星写真を見れば判るように、太古の昔、現在の男鹿半島(註:男鹿半島と言えば「なまはげ」であるが、「なまはげ」については別の機会に譲る)は本土から切り離された「島」であったが、北東側の米代川と南東側の雄物川から流れてきた土砂が日本海の荒波に押し返されて砂州がどんどん伸びて行き、琵琶湖に次いで日本で二番目に大きい湖――といっても、北海道のサロマ湖や遠州の浜名湖のように、元来、海の湾入部分の入り口が長く伸びた砂州に狭窄されてできた海跡湖のため、汽水湖――である「八郎潟」ができた。ここまで書けば、皆さんもお判りであろう。そう、十和田湖の主争いに敗れた八郎太郎は、この地に逃れて――伝承では、龍である自分の潜む場所を造るために、水を堰き止めて――八郎潟を造ったのである。私は、小学校で「八郎潟」について習ったとき以来、この不思議な形をした湖が気になっていたが、今回、大館能代北秋田空港へ着陸する寸前に、その全容を見ることができた。

飛行機から見下ろした八郎潟干拓地。
奥の方に男鹿半島が見える

  しかも、私が八郎潟について習ったときは戦後の人口急増期の流れの中で、食糧の増産のために、この大きな湖(註:当然、海水の流入を防ぐために防潮水門を造って水位を調整するので、淡水化される)はほんとんど干拓され、大規模な稲作水田となったが、20年間にわたる干拓事業が完成する頃には、日本の社会構造はすっかり変わってしまい、米剰りを解消するため、補助金を出してまで減反をすることになったものだから、皮肉な話である。しかも、直近の話題で言えば、日本社会を二分することになったTPP(環太平洋経済連携協定)論争の渦中において、八郎潟干拓地の超大規模経営の稲作農家が引き合いに出されるものだから、皮肉な話である。古の昔、自らの生存の存亡を掛けて八郎潟を築いた八郎太郎はどう思っているであろうか…。否、実は、とっくの昔に、八郎太郎の八郎潟に対する情熱は冷めてしまっているのである。それが、これから述べる「辰子伝説」である。


▼ 十和田湖・八郎潟・田沢湖を繋ぐ八郎太郎伝説

  「辰子伝説」とは、出羽国の東部仙北郡に、辰子という絶世の娘が居たが、彼女自身がその美貌を自覚した時、「この美貌と若さを永遠に保ちたい」と強く希うようになった。辰子は、霊験あらたかな観音菩薩に百夜参りの願掛けを行ったところ、観音は山奥にある霊泉の所在を教えた。辰子がその泉の水を飲んだが、激しい喉の渇きに見舞われ、八郎太郎同様、その水をいくら飲んでも渇きは満たされず、いつしか龍へと姿を変えてしまったので、日本一深い(432m)という田沢湖へと身を沈め、その「主」となった。帰らなかった娘の身を案じた辰子の母は、娘を捜し求めて、田沢湖畔で遂に娘と対面したが、辰子はそのとき既に人間ではなくなっていた――人間の姿に変身して母と対面したが、その性はすでに龍になっていた――のを悲しんだ母は、永遠の別れとなる娘に投げた松明が田沢湖の水面に落ちると、クニマスに姿を変えたという。この田沢湖の固有種であるクニマスは、1940年に絶滅したものと思われていたが、昨年、ひょんなことがきっかけとなって、タレントで東京海洋大学准教授でもある「さかなクン」によって、田沢湖から戦前に移植された富士五湖のひとつ西湖で人知れず生存していたものが「再発見」され、魚類学者でもある天皇陛下の記者会見でも取り上げられ、話題となったことは記憶に新しい。

  このクニマスが何故絶滅したかというと、1940年に、水力発電の水源として田沢湖を利用するため、元来は別水系の河川であった玉川の水を流入させたことによる。ほとんど「塩酸」と呼んでよいpH1.2という日本一の強酸性の「鹿湯(玉川)」温泉の排水が田沢湖に導入されたが、これはまた、強酸性の玉川の水が近隣の農作物に被害をもたらすので、それを希釈するという効果も期待された。そのことによって、田沢湖の酸性化は急速に進行し、一年以内に生息魚類のほとんど種が絶滅してしまった。沖縄の普天間基地の辺野古への移転問題でも問題にされるように、公共事業の実施前には必ず「環境アセスメント(影響評価)」が求められる現在と違って、1940年(昭和15年)という戦時体制下の日本においては、電源増強や食糧増産のほうが、特定の生物種の絶滅危惧よりも重要であったのは言うまでもない。

  話を「辰子伝説」に戻そう。こうして、田沢湖の主となった辰子という龍(絶世の美人)を、南祖坊との戦いに敗れ、十和田湖を追われて八郎潟の主になり果てた、やはり元人間の八郎太郎が放っておくはずがない。実は、八郎太郎は、最初、八郎潟の西隣にある男鹿半島の一ノ目潟(註:火山のクレーターに水が貯まった地形を「マール」と呼ぶが、男鹿半島には、東から順に、「一ノ目潟」「二ノ目潟」「三ノ目潟」と、その一部が海と繋がった「四ノ目潟=戸賀湾」というというマールが並んでいる)の女神に惚れていたが、男鹿真山神社の宮司に邪魔されたので叶わなかった。八郎潟の北東には、八郎太郎が落ち延びてきた米代川があるが、南東にある雄物川から玉川を遡ってゆくと、田沢湖から数百メートルのところまで行ける。八郎太郎は、この川の流れを利用して、毎冬、田沢湖の辰子の元を訪れるようになっ た。辰子も、八郎太郎を受け入れたので、毎年半分は主の居なくなる八郎潟はどんどん浅くなり、一方、二人も主の居る田沢湖は、冬でも凍らなくなったという。これは、冬になったら凍結する湖とそうでない湖の理由はどこにあるのかという原因譚説話である。因みに、一ノ目潟も凍結しない。

  この話には、後日談がある。自分に敗れた八郎太郎が、辰子という美人妻を得たという話を聞きつけた十和田湖の主、南祖坊(龍神)は、辰子をわがものにせんと、再び、八郎太郎に戦いを挑むが、前回は熊野権現の神託の実現という神聖な使命を帯びての戦いであったが、今回は、自己の性欲の実現という邪な動機であったためか、はたまた、八郎太郎・辰子タッグチームの息が合っていたのか、南祖坊が負けて十和田湖に帰ったことになっている。 これらの東北地方に伝わる神話は、この地域の各湖の生成の原因譚であると共に、カルデラ湖・火口湖の爆発的噴火や堰止め湖の決壊による洪水という自然災害の記憶を、中央政権によって都合良く潤色された「歴史」とはまた異なった形で、遙か古代のできごとを今日に伝えるものである。数千年前というとんでもなく古い時代に千五百年間にもわたって繁栄し続け、そして、おそらく大噴火による降灰や大地震による津波によって壊滅したと思われる三内丸山の縄文遺跡も、そのよすがを今日に伝える痕跡が、東北地方に伝承されている各種の伝説や神楽や祭りの中に残されていると思われる。

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