堕落したウルトラマン:異安心タロウ 1998/8/17

レルネット主幹 三宅善信

「夏休みシリーズ第2弾」ということで、前回の本コーナー(「ウルトラマンに観る親鸞思想:光の国と往相還相」)で予告したとおり、「堕落したウルトラマン:異安心(いあんじん)タロウ」という題名で、エッセイを作成した。最初に、何故このような企画を考えたかを明かすと、当「レルネット」ホームページは、「本格的な宗教専門のホームページ」を目指して今年1月に開設された。サイバースペースを徘徊する若者たちを、怪しげなカルト宗教の魔の手から守るためにも、社会的存在としての宗教教団についてできるだけ客観的な情報を提供(情報開示)することによって、自己判断能力を高める一助になれば、と思ったからである。

しかしながら、現実にサイバースペースにおける宗教関係のサイトを見回してみると、伝統教団のサイトは、ほとんど由緒物(歴史・境内建物や本尊)の紹介か恒例行事の案内ばかりで、あまり面白くないのが正直な感想である。一方、「怪しい」と言われている新々宗教教団のサイトは、確かに「よくでき」ていて面白い。これでは、人生や社会に疑問を持っているまじめな若者が「引っかかる」のも当然である。開設以来、わが「レルネット」のサイトは、僧侶・神職・宗教研究者といったいわゆる「専門家」からは、既に「それなりの評価」を頂いてきたが、肝心のサイバースペースを徘徊する若者たちにどれだけ関心を持って貰えたかが疑問であった。

 そこで、今なお根強い人気を保つ「ウルトラマン」を採り上げて、宗教的関心へのアプローチとした。実際、「ウルトラマンに観る親鸞思想:光の国と往相還相」を上梓してからは、一日当たりの当ホームページへのアクセス件数はほぼ倍増し、見ず知らずの若者たちから多くのメッセージが寄せられた。また、当然のことながら、真宗関係の僧侶や学者からも私の親鸞理解の不十分な点のご指摘も受けた。

さて、前回の「ウルトラマンに観る親鸞思想:光の国と往相還相」で私が指摘した点を要約すると:親鸞は、A)「浄土」について、一般人がイメージしている「無限に欲望の充足する」極楽を「化身土浄土」と名付け、自力の行者が往く、仮の(方便の)周辺的な浄土であるとした。一方で、他力の信心が決定(けつじょう)した人を迎える真の浄土を「真仏土浄土」と名付け、そこは「光に満ち満ちた世界」であるとした。ウルトラマンでいえば、「光の国(M78星雲)」のことである。同時に、B)「一度、信心決定して、浄土へ往った(往相廻向)人は、その信心故に、その光を携えて、必ずもう一度、姿を変えて(衆生を助けるために)この世に生まれ変わる(還相廻向)はずである」と、親鸞は規定した。ウルトラマンでいえば、ウルトラセブン以下ダイナに至る二十数人の「歴代」ウルトラマンたちのことである。

「極楽往生」を「死ぬこと」だと勘違いしている(「往生」とは、文字通り「(浄土へ)往って生きること」である)人は論外としても、多くのウルトラマンマニアの人から寄せられた疑問点を要約すると、@M78星雲は、「光の国」ではなく、ウルトラ一族の住む「ウルトラの国」である。Aしたがって、歴代ウルトラマンは、同一人格の生まれ変わり(往相還相)ではなくて、完全な別人格である。そのことは、同時に複数のウルトラ兄弟が登場することからも明らかだ。B怪獣や宇宙人をやっつけることは、超人ウルトラマンの慈悲による「絶対的な他力」ではなく、科特隊をはじめとする人類とウルトラマンたちによる共同作業である。Cしたがって、この物語のメッセージは、一見、とてもかなわないような強敵に対しても、最後まで諦めずにがんばる人間の自己鍛錬・啓発(自力)の生き方である。というような点が主であった。

私は、これらの疑問が寄せられるであろうことを予想して、前回のエッセイの最後に、今回の「堕落したウルトラマン:異安心タロウ」という作品の上梓を予告したのである。もちろん、私がここで採り上げようと思っていることは、個々のテレビシリーズの監督や脚本家の意図や人格ではなく、その番組を生み出した社会情勢や、さらには、その背後にある「(制作者・放送関係者・視聴者すべてを包摂した)日本人の『集団的無意識』ともいうべき特性」をえぐり出すことであり、それは、極めて特異な思想家といわれる親鸞ですら、800年の時を隔てているにもかかわらず、同じ日本人として持っていたであろう無意識の意識に迫ることである。

さて、タロウというのは、いうまでもなく「ウルトラマンタロウ」のことである。一連の作品群でいえば、ウルトラ「Q」・「マン」・「セブン」・「ジャック(帰ってきたウルトラマン)」・「A(エース)」に続くシリーズ第6作目の「タロウ」である。マニアの間では、第1期シリーズが1966〜67年に放送された「Q」と「マン」と「セブン」で、第2期が、1971〜74年の「ジャック」・「A」・「タロウ」・「レオ」の4作品。第3期が、1979〜95年の「80(エイティ)」・「アンドロメロス」他、劇場公開用作品、アニメ版や輸出版といったもろもろの作品群。第4期が現在放送中(1996年以後)の「ティガ」・「ダイナ」・「ガイア」(9月5日放送開始)、それに、番外編として、劇場映画シリーズの「ゼアス」がある。ただし、第3期については、ほとんどの作品がコマーシャリズムのみの思想性も何もない駄作(ほとんど単発か短編)なので、今回は触れない。ここでは「高尚」な第1期から「駄作」の第3期への橋渡しとなった第2期シリーズについて論評する。したがって、本エッセイの題名も「堕落したウルトラマン」ということになっている。

第2期シリーズは、あの感動的な名場面、モロボシ・ダン隊員が、彼に思いを寄せていたアンヌ隊員に、自らの正体(ウルトラセブン)を告白し、「明けの明星と共にM78星雲へ帰る」と告げるシーンをもって完結したかに見えた第1期シリーズが、4年ぶりに文字通り「帰ってきた」のが、1971年に始まる第2期シリーズである。しかしながら、ウルトラマンは、このシリーズの途中で決定的な神学的「堕落」をしたのである

東京オリンピック(1964年)から大阪万博(1970年)までの、「大きいことは、いいことだ」に象徴される高度経済成長が何の疑いもなく花開いた時期に制作された第1期シリーズとは様相が異なり、第2期シリーズが放送されたこの時期は、公害問題・ベトナム戦争・ドルショック・石油ショック等々が相次いで顕在化し、「一国平和主義」の下、日本人が戦後営々として築き上げてきた経済的繁栄が、無限に成長できないことを見せつけられた時期に当たる。特撮モノの世界でも、巨大な怪獣ではなく、「仮面ライダー」に始まる「変身モノ」と呼ばれるジャンルに属する「人造人間キカイダー」や「愛の戦士レインボーマン」といった「陰のある等身大ヒーロー」が次々と制作(1971〜72年)され、一世を風靡した時期に当たる。1950年代のゴジラ以来、「特撮モノの本家」を自認していた円谷プロも大いにあせったことであろう。そういう状況の中で、制作されたのが「帰ってきたウルトラマン」に始まる第2期シリーズである。

この作品は、当初、文字通り「帰ってきた」ウルトラマンであって、そのウルトラマンは、「初代」ウルトラマンと同じウルトラマンであった(デザインは多少異なるが、初代ウルトラマンの放送中でもかなりデザインが変わったことを考慮すれば、たいした違いではない)はずである。ストーリーも、「初代」ウルトラマンに見られたノー天気さ(毎回繰り返されるアラシ隊員とイデ隊員の掛け合い漫才的会話や、一民間人でしかもまだ少年のホシノ君が科学特捜隊の正式メンバーとほぼ同じことをしていた等)は陰を潜め、団次郎というどこか陰のある人物が主役(ウルトラマン)を勤め、零細な町工場や身体に障害を持った人々が物語に欠かせぬ要素となって、現実感のあるストーリー展開をめざしていた。しかし、この時点でも、ウルトラマンはやはり「帰ってきた(同一人格の)」ウルトラマンであって、後に「ジャック」と呼ばれるようになった別人格のウルトラマンではなかったはずである。そういえば、この前後に『帰ってきた酔っぱらい』という歌も流行した。この歌の中で歌われた「天国」は、まさに「化身土浄土」そのものだ。

ところが、次作の「ウルトラマンA(エース)」になって、事態がさらに一変する。このウルトラマンは、北斗星児と南夕子というシリーズ中、唯一の「男女合体型」ウルトラマンである。イザナギ・イザナミという男女2神のセックスによって世界を創り出したという『古事記』同様、名前からも雄大な宇宙的スケールの道教的(陰陽五行説的)世界観が連想される。敵役も、この世のモノではない異次元人ヤプールである。物語の中で、2人がウルトラマンになったきっかけが変わっている。怪獣が街で大暴れしたとき、病院から逃げ遅れた患者を助けるために、自らのいのちを投げ出した看護婦南夕子とガソリンスタンドの従業員北斗星児の勇気に応えてウルトラマンが乗り移るというものだ。その中には、他力(飛行機事故で死んだハヤタ隊員にウルトラマンが乗り移った)性よりも、自力性の要素が大いに見られる。

この番組を視ていて私が一番疑問に思ったのは、何の特殊技能もない看護婦とGSの従業員が、最新の科学的知識やジェット機の操縦技術を必要とするTAC(科学特捜隊のような地球防衛組織)の隊員になれたのかという点である。この点については、後に、ウルトラマンゼアスにおいて、出光興産がスポンサーになっているからという訳ではないが、ガソリンスタンドそのものがMYDO(科特隊のような組織)の秘密基地という設定のパロディになっているのであろうか…。さらに、男女2人が合体するということは、「2人がばらばらにいるとき、例えば入浴中とかに、怪獣が現れたらどうするのだろう?」という素朴な疑問まであり得る。こういう視聴者からの疑問が寄せられたのか、どういう事情があったのか知らないが、シリーズ中盤の第28話で突然、主役の片方である南夕子隊員(初めから陰のある女優であったが)が『かぐや姫』よろしく「実は月星人であった」ということになって、月へ帰ってしまうのである。その後は、北斗星児隊員一人でウルトラマンAに変身できるようになるのである。なんというご都合主義….

ここら辺から、話のトーンが急転回して、ウルトラマンには相応しくない、角と揉み上げの生えた、筋肉隆々の「ウルトラの父」なる人物が登場し、やたらコミカルなストーリー展開(対象視聴者層の低年齢化)になってくる。そのくせ、どこかユリゲラーの「スプーン曲げ」ブームに代表される世相を反映してか「オカルト的な世界」が作品に反映されてくる。恐らく、オウム真理教の幹部たちは、この時代に少年期を送った世代が中心であろうと思われる。1960年までに生まれた人(『鉄腕アトム』や『鉄人28号』を少年期に視て育った世代)は、ほとんどオカルト・UFO・各種占いという「非科学的な」ものを信じないが、逆に、1960年以後に生まれた世代は、驚くほど、超常現象・占い・UFOなどが好きであることが多い。

そして、「ウルトラマンの堕落」を決定づけた「ウルトラマンタロウ」の登場である。この未成熟なウルトラマンは、最初から、「ウルトラ兄弟の末っ子(第6番目)」という設定で登場する。「初代」ウルトラマンの最終回で、宇宙恐竜ゼットンに倒されたウルトラマンを助けたゾフィーなる人物(?)が、ウルトラ兄弟の栄えある長兄ということになり、以下、初代ウルトラマンが次男、セブンが三男、そして、驚くべきことに、「帰ってきた」ウルトラマン(「初代」と同一人格)であたはずの人物(?)が、新たにジャックという名前を与えられ四男を襲名し、エースは五男に、そして、「タロウ」といういかにも日本人らしい名前を持ったウルトラマンが六男ということになった。さらに、6兄弟を成立させるためには父母も必要であろうということで、揉み上げの「ウルトラの父」に加えて、お下げ髪の「ウルトラの母」まで登場させた。当時、日本では、夫婦間の子供の数の平均が約2人であった時代にである。そういえば、沖縄から出てきた「フィンガー5」なる「 ジャリタレ」が流行ったのもこの時代か…。

これまでは、悪者の怪獣や宇宙人が、卑怯にも「二匹(人)がかり」でウルトラマンに挑んだことはあっても、基本的に歴代のウルトラマンたちは、一人で立ち向かったという孤高な姿であったはずである。それがタロウでは、一匹(人)の怪獣・宇宙人に対して、ウルトラ6兄弟が集団で殴る蹴るの「いじめ」を行い、それでも足りない時は、子供の喧嘩に親まで介入して、親バカ過保護の極みともいえるストーリーが中心であった。放送の題名も「やさしい怪獣お父さん(第23話)」とか「ウルトラ父子餅つき大作戦(第39話)」とかいったギャグそのものである。そのくせ、背後に意識されて世界像は、おどろおどろとしたオカルト(アニミズム)の世界である。

初代ウルトラマンやセブンにおいて、崇高な理想の世界(浄土)であった「光の国」=M78星雲は、タロウでは、すっかり「ウルトラの国」という具体的な土地建物や暖かい家庭のある「現実の欲望充足型の世界」へと堕落していった。最初のウルトラマンが始まって十年も経たないうちに、ウルトラシリーズは、「平和な暮らし→怪獣出現→人類(科特隊)の反撃と挫折→ウルトラマン登場と怪獣退治→平和な暮らし」という表面上は同じパターンを繰り返しているように見えて、実は、ウルトラマン側の一方的な慈悲心による人間救済から、ウルトラ兄弟の家族愛の絆と勧善懲悪の物語へと堕落してしまった。このことは、まるで、親鸞がその「絶対他力の教え」の伝道の協力者であった長男善鸞を、その教えの純粋性を保とうとするあまり、「絶対他力の教え」に不純物(オカルト的秘技)を混じえようとしたかどにより「異安心(いあんじん)」として義絶した故事に習い、ウルトラシリーズの純粋性を守るためにも、「ウルトラマンタロウ」の話全体をウルトラマンへの「異安心」として抹消することを提案する。

事実、この路線の矛盾が、タロウの次作である「ウルトラマンレオ」においては、継続不可能となり、レオは「ウルトラ6兄弟」とは別系統の宇宙人ということに設定し直され、L87星雲という別の「光の国(浄土)」から来た(註:仏教でも、阿弥陀如来の主宰する「西方極楽浄土」の他にも、大日如来・薬師如来・観世音菩薩などの主宰するそれぞれの「浄土」がある)ということにせざるをえなかったが、「時既に遅し」で、この作品をもって第2期ウルトラシリーズは終焉せざるをえなかった。実際、このダメージは長く尾を引き、最初に述べたように、第3期として、以後1979年〜1996年までの間に創られた数々の駄作の山(登場人物やストーリーはおろか題名すら思い浮かばない)を築くことになるのである。

最後に来て、横道に少し逸れるが、この第3期中の異色の作品2点について少し触れたい。まず、1979年に劇場公開用(東南アジア向け輸出バージョン?)として制作された『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』という単発作品がある。ストーリーはタロウが主役である以上、駄作である。しかし、場面設定が変わっている。日本の話ではなくて、異常気象に悩むタイ国の話である。アユタヤと思しき仏教遺跡に骨董品泥棒が入り、仏像を盗もうとする。遺跡で遊んでいた子供たちの一人が勇敢にもその仏像を取り返そうとして、泥棒を追いかけるが無惨にも撃ち殺されてしまう。しかしながら、ブッダの慈悲で少年は「伝説の白猿ハヌマーン」として生き返る。その頃、気象改造研究施設に怪獣(ドロボン他)が出現して大暴れする。そこで、現地の間の抜けた科特隊のような防衛隊(衣装はZATと同じ)が反撃するもすぐにやられ、ウルトラ兄弟の登場となる。ここからが、独特なのであるが、さすがに「上座部(小乗)仏教」の国の話である。ウルトラの母が、子供たちの勝利と異常気象の回復を「ウルトラの国」からブッダに祈るのである。その結果、苦戦をしていたウルトラ兄弟たちは、ブッダの命 令で出現したハヌマーンの加勢で勝利するというコミックである。ここで、注目すべきは、「ブッダのダルマ(法)は、三千世界(宇宙)に普遍的に存在するが、ウルトラの国は、『あの世』ではなく、単に距離が遠いだけの『この世』のものである」という解釈である。

もうひとつは、ウルトラマン誕生25周年を記念して、アメリカで(向けに)制作された『ウルトラマンパワード』である。白人を意識したのかこの彫りの深い碧眼のウルトラマンを私はなかなか気に入っている。全13話の作品であるが、初代ウルトラマンのストーリーを最も忠実に再現している。もちろん、舞台がアメリカなので、何という組織だったか名前を忘れたが、科特隊のような怪獣専門の特殊防衛軍の隊員たちも、黒人の「キャップ(懐かしい響き!)」に白人(イデ・アラシ・フジ隊員に相当する)の隊員たち、それにウルトラマンに変身する日系人のカイ隊員(若き日のケイン・コスギ)という、人種構成も配慮が行き届いている。バルタン星人の話なんかも、最初に人間と等身大で出現し、隊員の銃で撃たれて一旦倒れるのであるが、すぐに幽体離脱をして立ち上がり、「フォッフォッフォッフォッ…」の声と共に巨大化するところなんて、涙モノである。東京オリンピックのメイン会場となった国立競技場に現れたアボラスとバニラの2大古代怪獣は、アメリカ版でも、ちゃっちいハイスクールの運動場であるが、一応、スタジアムをバックに登場する…。何という、アルカイズム!  

さらに、「着ぐるみ」のウルトラマンの中に入っている人物が、肝心の「顔」が見えないのにもかかわらず、登場人物中最もギャラが高いであろうアメリカン忍者ヒーローのショー・コスギ(ケイン・コスギの実父)である。なんという贅沢! このウルトラマンパワードは、闘うときにはやたらとカンフーっぽい動きをするのであるが、最後にお決まりの「スペシウム光線」を発射するときがミソである。日本製のすべてのウルトラマンが、クロスした腕の手前側(右手)の片一方から「○○光線」を発射するのであるが、パワードはクロスした両腕から「十字架状」にスペシウム光線が発射されて、怪獣を十字に切り裂くのである。さすがに、キリスト教国で制作されたウルトラマンと、感心した。このウルトラマンパワードの成功が、ハリウッド製「ゴジラ」の制作の動機のひとつになっていることを知る人は少ないであろう。レンタルビデオでもよいから、手にはいるのなら、是非、一見することをお奨めする。

このように、既に30年以上の歴史を経て、数多のパターンを生み出したウルトラマンであるが、その作品群の変遷には、スポンサーや脚本家の意向だけでなく、制作された時代や社会の背景が色濃く反映され、さらには、親鸞にも作用したような日本人の「集団的無意識」ともいえる深層心理が映し出されていると私は考えている。今年は、親鸞聖人の師で、「定善(瞑想)・散善(世間的善行)」ではなく、「他力を信じた口称念仏のみでよい」と説いた法然上人が、パトロンの九条関白のリクエストに応えて、「他力本願」の教えを叙述した『選択(せんちゃく)本願念仏集』が上梓されて、ちょうど800年。また、親鸞の9代目の子孫で、今日の本願寺教団の礎を築いた蓮如上人の500年遠忌の年に当たる。また、ウルトラマンのシリーズ化のきっかけとなった「ウルトラセブン」が制作されて30年目の佳節にも当たる。

以上、前作に続いて、インターネット上を徘徊する若者に、少しでも宗教について関心を持ってもらうために、多少こじつけがましい論理の展開であったが、これをきっかけに、いろいろと考える癖をつけて欲しいと思う。


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