商工商工、朝から商工
              
        1999.11.7    

レルネット主幹 三宅善信

▼TV局の見識

土日の朝ともなれば、政治経済を扱う番組が花盛りである。伝統的なNHKの「お堅い」番組だけでなく、桂文珍や島田紳介といった上方のお笑い芸人(司会者が大阪弁でない関口浩の番組(『サンデーモーニング』)は視ない)をメインキャラクターに据えて、(大多数のTV視聴者のレベルにとっては)小難しいテーマをできるだけ飽きさせずに「視させる(考えさせるではない)」時間帯である。これらの番組の功績は大きい。これまで、あまり政治に関心のなかった主婦層や青年層に多少とも政治問題に関心を持たせるきっかけになったことだけは確かだからだ。選挙前ともなれば、これらの番組が「選挙結果予想」なるものを発表し、その報道が逆に、まだ投票相手を決めていない有権者の心理に影響を与え、結果としてTV局が「主権者」になってしまうことも多々見かける。また、政治家も、できるだけ「TVに顔を露出する」ことが最大の選挙活動になるので、ホイホイとこの手の番組に出演する。

さて、今週(11月第1週)のこの手の番組で最も多くの時間が割かれたテーマは「商工ローン」問題と、「介護保険料徴収猶予」問題である。「介護保険」制度そのものについては、10月23日付の拙論『ボランティアの自殺』で十分批判したつもりであったが、最近の小渕政権サイドからは、さらに輪を掛けたインチキ運用案(もともと悪法である「介護保険法」を更にひどくする総選挙目当ての「保険料徴収半年間猶予案」)なるものが出てきて、論評する気にもなれないので、今回は、もうひとつの話題「商工ローン」について話をしたい。

 「主幹の主観」愛読者の皆様は、既にお気づきかと思うが、TV局に商工ローンを批判する権利はない。つい最近まで、件の「日栄」のコマーシャル(朝日が登って、立派な京都の本社から日本列島各地の支店に線が繋がるイメージ)をオンエアしてたではないか。あのコマーシャルを視て「日栄は社会的信用のある会社だ」と思った中小企業経営者たちもいるはずだ。それを、問題が明るみになった途端にオンエアを打ち切って、何ごともなかったかのように今度は「日栄叩き」では、TV局の見識が疑われるというものだ。


▼年利50%は高すぎるか?

商工ローンの具体的被害や手口については、今さら私がここで論(あげつら)うまでもない。TV・新聞・週刊誌等で十分紹介されている。そこで、私はもっとラディカルな意見を述べたい。まず、「法定最高限度利率」の不思議についてである。現行の「利息制限法」では、上限は年利15%である。また「貸金業法」では、借入金が100万円の場合、上限は年利30%である。さらに「出資法」では、年利40%まで認められている。素人目には同じように金を借りながら、かくも最高利率(これ以上の金利は違法で、返済義務はない)に違いがあるのか判りにくい。実は、それぞれの規制の対象が異なるのである。利息制限法は預貯金が存在する「銀行(bank)」が対象で、貸金業法は借り手が一方的に借りるばかりの消費者金融(サラ金)や商工ローンといったいわゆる「ノンバンク」が対象である。出資法は言わずもがなの商法上の「出資」行為である。

そもそも、金利の最高限度を15%や30%といった固定的な率で決めることが不合理である。もし、日本がかつてのブラジルやロシアのように、年率500%にも及ぶような超インフレになったら(現在のような「ばらまき景気対策」を続ける限り、近い将来インフレになることは目に見えている。それを誤魔化す手段が、前回『もうひとつの「Y2K」問題』で可能性を指摘した「デノミ」政策である)、たとえ年利「50%の金利でも安い」ものだ。山ほど借金しても、先にたくさん商品を仕入れておいた方がよい。逆に、ここ数年間の日本社会のように、景気刺激策として、日銀が市場金利を実質0%に据え置くというような金融政策を採用している場合は、たとえ年利「5%の金利でも高い」と言える。

サラ金や商工ローン業者は、実質的に2〜3%金利で資金を調達し、その金を30〜40%という高金利で運用(貸付)しているのだから、儲かって当たり前である。事実、サラ金や商工ローン各社はどの社も、この不景気の中、否、不景気だからこそ、史上最高の「収益」を上げているのだ。まず、金利制限に関する法律を定率制から変動制と移行させるべきである。50%の金利でも「低い」時もあれば、5%の金利でも「高い」時もあるからだ。それよりも「法定最高利率は公定歩合の○倍まで」とすべきである。それでも、世の中に悪の種は尽きないものであるから、法外な高利貸しはいくらでも出てくるであろう。そんな連中から返済を迫られても「法外な」上乗せ部分については返済の義務はない。そして、すべての電話機を録音機能付きにしてしまい、取り立ての際の脅迫的表現はすべて裁判の際の証拠採用するようにすれば良い。もちろん、法定金利内の借金については、必ず返済させるのは言うまでもないが…。


▼銀行がなくても資本主義経済は成り立つ

そもそも、このような貸金業者(ノンバンク)が繁盛するようになったのは、銀行(バンク)のせいである。大銀行が自分たちの都合で、グローバルスタンダードである「BIS規制」に適合させるために自己資本比率を8%に上げなければならないからといって、中小企業相手に「貸し渋り」を行い、そのせいで、日々の回転資金が不如意になった中小企業が、本業での業績をきちんと上げているにもかかわらず、瞬間的な資金難に陥って連鎖倒産する。そこで、中小企業の経営者たちは日々の回転資金を求めて商工ローンに融資を依頼する。中小企業(実業)には金を貸さない銀行も、商工ローン(虚業)には数百億円単位で資金を提供している。いちいち個別の企業毎の業績の審査などしなくとも、自分たち貸した金の何倍もの金利で「又貸し」するのだから儲かって当たり前だ。日栄や商工ファンドに貸し込んだ方が利益率が良いからだ。銀行として、取引先企業を見る専門的知識も何も要らない。否、ないほうが良い。こんなアホな話はない。

 だいたい、バブル経済といい、住専問題といい、今度の商工ローン問題といい、この10年間に起こったほとんどすべての経済的問題は、銀行の見識(社会的責任)のなさが主な原因である。これには、監督官庁としての機能を果たすどころか、銀行を単なる天下り先としてしか思っていなかった大蔵省も同罪である。この50年間、国民がせっせせっせと汗水たらして勤勉に働いて貯め込んだ富が、こういった無責任な連中のせいでパーになり(価値が半減し)ながら、暴動が起きないことのほうが不思議なくらいだ。「金融」政策といっても、これではまるで「金が融けて(なくなって)しまう」政策ではないか。

実は、私は「銀行不要論」者である。というよりは、「金が金を生み出す」という「金利不要論」者である。貸金業は「虚業」も甚だしい。とはいっても、読者の中には「銀行なしに資本主義経済は成り立つか?」と疑問に思われる向きもあろう。答えはイエスである。事実、イスラム教諸国では、『コーラン』で利子を取ることを禁じられているので、銀行といえども金利という考え方がない。最も戒律(イスラム法)の厳しい国として知られるサウジアラビアにも、金利を取るという形での銀行がないにもかかわらず、企業はいくらでも存在する。仕組みはこうだ。銀行が会社に融資する際には、金利を取るのではなくて、その会社の増資された株式を買う(資本参加する)のである。そして、融資を受けた会社側は、銀行との契約に基づいて、所定の年限のまでに毎年一定割合の株式を買い戻してゆくのである。


▼江戸時代以下の金融政策

キリスト教世界でも、プロテスタントの成立によって市民社会(ブルジョワ)の富が蓄積されるようになる前までは、金利を取ることはご法度だった。シェークスピアの『ヴェニスの商人』の話を読めば判るはずだ。ユダヤ人(つまりカトリック教徒ではない)シャイロックは、金利を取るので守銭奴扱いされたのではなかったか。日本でも、江戸時代には「両替商」といって、手形発行や両替(東西が金銀副本位制であったため)の際の手数料収入が金融業者の収入源であった。現代のカード社会同様、多額の現金など持ち歩く必要はなかった。大坂の両替商(民間業者)が発行した手形を持って江戸へ下って、江戸の両替商(民間業者)にこれを示せば、たちまち現金化できたのである。そういえば、この国の銀行用語の多く、手形・割引・為替・頭取…は、江戸時代から使われている言葉である。

それどころか、財産を「フロー」と「ストック」という2つの形態で考える方法論すら、元禄時代(300年前)に著された西鶴の『世間胸算用』で、「身上(しんしょう=フロー)」と「身代(しんだい=ストック)」という言葉を使って、きちんと使い分けられている。高度成長時代以後、日本の銀行は、融資先の業務内容や将来性(フロー)への審査の努力を怠り、目に見え(数量化し)やすい土地や会社規模などの担保(ストック)をもってこれを評価してきたことへのしっぺ返しが、大量の不良債権を生み出してきたのだ。江戸時代の両替商以下、ということだ。

 「金融秩序の維持」という錦の御旗の下、国民の血税から何兆円もの「公的資金」の注入で生き返った大銀行が、その金で商工ローンに融資していたのだから、開いた口が塞がらない。この際、どうだろう。イスラム方式で、国民ひとりひとりの納税額に比例して、公的資金を注入した銀行の株式を国民に分配するというアイデアは? ある銀行の資本金の3割を公的資金で賄ったのなら、その銀行の経営権の3割は、納税者にあるはずである。ルノーから経営危機の日産自動車に最高執行責任者として乗り込み、大鉈(おおなた)を揮(ふる)ったカルロス・ゴーン氏のような人物が、日本人自らの中から出る必要がある。いくら公的資金だからといって、これを国(官僚)に任せておいたのでは「元の木阿弥」だから、やはり、この権利を納税者に分け与え、株主代表訴訟等で、銀行経営者の責任を積極的に問うべきである。

 こういう風に、ラディカルな現状打開策を考えながら『主幹の主観』を執筆している横でも、TVでは相変わらず、アホのひとつ覚えみたいに「商工ローン、商工ローン」という言葉だけが、マントラ(呪文)のように繰り返されているだけである。これではまるで、5年前にTV番組(特に、ワイドショー)が、どのチャンネルを視ても「オウム真理教問題」一色だった頃、耳についたあのBGM「♪彰晃・彰晃・ショコショコ・ショーコー、麻原彰晃♪」と同じく、「♪商工・商工・ショコショコ・ショーコー、朝から商工♪」である。まるで進歩というものが見られない。なんとかならないものだろうか?


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