ボランティアの自殺行為
              
        199910.23    


レルネット主幹 三宅善信

▼インドネシアの新大統領の予想的中

9月 1日付の全国紙5紙および主要地方紙に写真入りで死亡記事が掲載されていたので、『主幹の主観』愛読者ならご存知の方も多いと思うが、私の敬愛して止まなかった祖父三宅歳雄が 8月31日に、老衰のために満96歳7カ月の天寿を全うして世を去った。各方面で活躍した人なので、5,000名を超す各界の方々が葬儀に参列して、故人との別れを惜しんでくださった。私は、葬儀奉行として同葬儀の運営の中心的立場にいたため、その後も多忙を極め、また服喪期間(「合祀祭」までの50日間)という意味で、2カ月間程、『主幹の主観』を更新できなかった。当コーナーを楽しみにしておられる愛読者の方々に、まず、お詫びする。

その間にも世の中は激しく動き、キルギスの日本人技師人質事件、東海村の核燃料施設臨界事故、自自公連立政権成立、東チモール問題、相次ぐ新幹線のトンネル落石事故、大銀行の合併、パキスタンのクーデター等々、いつもなら、直ぐに『主幹の主観』のネタになっているような「格好の出来事」が次々と起こったが、「服喪期間」ということで、ジッと我慢していた。そんな中でも、当『主幹の主観』のコーナーが6月10日という早い時点で、世間に先駆けて採り上げたアブドゥル・ラフマン・ワヒド師のインドネシア大統領就任が現実のこととなった。嘘だと思うのなら、拙エッセイ『女帝:アジアにおける安定装置』を見ていただきたい。

あの時点で、日本政府はもとより、ジャカルタに数多くの取材陣を派遣したマスコミ各社の中で、今日のワヒド政権誕生を予測した人は何人いたであろう。「インドネシアの政治・経済再建のために『アジアの大国』としての責任を果たす」などと、大口を叩いていた政府関係者の顔が見たいものだ。ほとんど金を使わずに、大阪の地に居ながらにしてワヒド政権成立を的中させた私をこそ、即刻、日本政府の外交顧問に迎え入れるべきだと提言してくれる人はいないものだろうか? 「宗教」の要素を抜きにして国際政治は理解できないということを、日本政府もマスコミも未だに判っていない。「政教分離」を国是とするはずの先進国アメリカ合衆国ですら、「(聖書の『神による天地創造』説と対立する)進化論を公立学校で教えるべきか否か?」などという戯(たわ)けた問題が大統領選挙の争点になるくらい、現実の国際政治は宗教的なのだ。

私は、大学2年の時(1978年)に、「今世紀中のソ連邦の崩壊」を民族・宗教問題の観点から予測したが、当時はソ連社会主義体制が盤石に見えたので、教授や友人たちから「あり得ないことだ」と笑われたが、その後の10年間で一気にソ連邦が崩壊した。その後の国際情勢は、旧ユーゴ地域や旧ソ連から独立した中央アジアの諸国家の問題を見るまでもない。今回のインドネシアの新政権成立に際して、Nahdlatul Ulama というイスラム団体の議長をしていたワヒド大統領(選挙の際には「国民覚醒党」を組織)に、私が祝電を送ったのは言うまでもない。


▼介護保険制度は天下の悪法

さて、今回の本題に入るが、昨今の政策課題の中で大変気になることがある。それは、来年4月から導入が予定されている「介護保険制度」である。政府筋はこの制度のスムーズな実施と定着をはかるための宣伝に躍起であり、この秋から「要介護認定手続き」などいうマスコミまで政府のお先棒を担いだ番組構成が喧(かまびす)しいが、この制度が日本社会にもたらす悪影響について、本当に真剣に考えているのであろうか?

そもそも、「天寿の長幼(体質や健康状態の個人差も含む)」いう、いわば人智を超えた問題について、国家あるいは地方自治体が画一的な制度でもってこれをなんとかしようなどという発想自体がバカげている。40歳になったら介護保険料が給与から天引きされる(サラリーマンの場合)というが、この人がもし60歳になった日にポックリと死んだら、まったくの取られ損である。逆に、来年4月に60歳を迎える人が、その直後に呆けたら、一円も保険料を払わずに貰うだけの丸得である。 96歳で亡くなるまで「現役」の宗教家を務めた(当然、かなりの月給が入る)祖父などは、現行の社会保険制度下でも、サラリーマンのような「定年」がないため、死ぬまで毎月、年金や社会保険料を取られ続けていた。これなんかも取られ損のケースだ。

だいいち、本当に介護を必要とするような人が自分でこのややこしい手続きを申請できるであろうか? あるいは、自治体から派遣された認定担当者が、千差万別の老人を一律のマニュアルに沿って公正に段階分けできるであろうか? 知人に頼まれて(あるいは賄賂を貰って)、要介護の度合いを高く認定する(たくさん金を受け取れる)というような事件がきっと多発するであろうことは、和歌山の保険金詐欺(殺人)事件の容疑者(被告)から頼まれて、(多額の保険金を受け取るために被告の)障害の度合いを実際よりも重度に診断した医者がいることからも明らかである。あるいは、そうでなくても、ヘルパーさんが個人の家を一軒一軒回るのだから、介護を必要とする老人のプライバシーが本当に守られるのであろうか? きっと、ヘルパーさんが(介護の必要な老人のいる)家人に対して「お宅のおばあちゃんなんて、○○さんちのお爺ちゃんに比べたら(ボケ具合が)ずっとましなほうよ」なんて会話が交わされる光景が目に浮かぶ。

その上、昨今の亀井静香自民党政調会長の「自分の家で家族を介護している人には現金を至急すべきだ」というような意見(善意の計量化)まで飛び出して、まさに世も末の感がある。「お年寄りの面倒を見る」というのは、人間が人間であるための必須の要件ではなかったのか? 自分の遺伝子を少しでも多く残すという生物共通の目的のため、鳥や獣でも自分の子供の面倒は見る。しかし、たいていの動物は、病気や怪我をしたり年老いて動きが鈍くなったりすると、たちまち仲間から疎外されてしまう。年寄りには生物学的メリットがないためだ。

ところが、どういう訳か、人間だけは年老いた家族の面倒を見、その年寄りが亡くなったら、埋葬までしてこれを弔うというのが、人類共通の行動様式である。他の動物たちと異なって、ヒトが人間になった(この間、形態的な進化はほとんど見られない)のは、先人の経験をも擬似的に自分の経験として追体験できるようになったことにより、飛躍的に知能が発達したからだといえる。どんな天才でも、百年に満たないヒトの一生の中で、アルキメデスの法則から相対性理論まで(バッハの音楽からビートルズまででも、何でもよい)を一人で発見することなど不可能である。しかし、われわれはそれらの膨大な知識を簡単に手に入れ、追体験することができる。これもすべて、ヒトという動物が先人(老人)を大切にしたという行動様式がもたらせた果実である。


▼制度化・計量化を避けることが大切

産業革命以後の近代は、人類社会にかつてない繁栄をもたらした。数千年来の「自分で使うものは自分で作る」という構造が崩れ、「消費者」という社会階層を生み出した。このことは、地球規模の市場経済社会を現実のものとした。生産→流通→消費という市場経済化(全てを金銭的価値によって換算すること)の動きは、物だけに留まらず、ついには、情報やサービスの世界にまで波及するようになった。

本来、「無償の行為」を前提として行われていた家族間や地域内での「奉仕」が「サービス」と名を変え、金銭的に計量化されるようになったことは、昨今の公的介護保険制度の導入を見るまでもなく、明らかである。

この流れは、本来、自律的(恣意的・自立的・一時的)なものであるはずのボランティアの公的制度化に繋がっている。NPO法や各種の登録制度がそれである。文字通り、サービスの計量化である。ところが、鳴り物入りで登場した企業による各種のボランティア支援活動(有給ボランティア休暇等)も、最近では、不景気を理由にサッパリ姿を消した。ボランティア休暇どころかリストラされないか心配している人も多いはずだ。これらは、そもそも、そんな「保証された」ボランティアを目指したことに敗因がある。制度化・計量化こそボランティアの自殺行為であると思う。

私は、この二十年間、内外で数多くのボランティア活動の現場に接してきた。その中には、私にはとても真似することができないような自らの「いのちの危険」をも顧みないような尊い行為も目の当たりにしたし、また、個々人のボランティア意識を上手く吸い上げた強大なNGO組織の活動も見てきた。ここらでもう一度、本来のボランティアの意味に立ち返り、制度化・計量化された「サービス」から、個人の自律的な無償の「奉仕」行為を評価し直す時期に来ていると思う。

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