なぜ「ノアの大洪水」にこだわるのか?
       00年 09月16日
 
レルネット主幹 三宅善信

▼日常茶飯事の「大洪水」

9月14日付のCNNニュースのサイトを見ていたら、興味深い記事が掲載されていた。曰く、ワシントンのAP通信の配信として、「初の『ノアの大洪水』の証拠発見か――黒海」という見出しが躍っている。記事を読んで行けば、「トルコ沖19キロの黒海の水深91メートルの海底から7,000年前の住居跡の遺跡が発掘された。これは、聖書に記されている『ノアの大洪水』の初の証拠だ」というのである。この記事を読んで、思わず「おいおい(ちょっと待て)」と突っ込みたくなった。先般、「主幹の主観」『一家5人餓死事件とノアの方舟』(で、ノアの大洪水に触れたばかりだからである。

確かに、旧約聖書に描かれている世界は、現在の「中近東」と呼ばれる地域(東はイラク、北はトルコ、西はエジプト、南はエチオピア辺り)が舞台となっているし、主役であるユダヤ人の父祖アブラハムの故地が、チグリス・ユーフラテス川の流域だったことも判っている。人類「最古」の文明と呼ばれるメソポタミア文明を育んだこの大河の上流には、「地震の巣」で有名なトルコのアナリア高原があり、ノアの方舟が漂着した(世界で一番高いという意味)とされるアララット山と呼ばれる高山もある。確かに、舞台装置としてはよくできている。

しかし、ちょっと考えてみれば容易に判ることであるが、大洪水くらい世界中で日常茶飯事に起こっている。これだけ、気象予報技術が進んだ現在でも、つい数日前に名古屋市で堤防が決壊する洪水があったばかりだ。私の生まれ育った大阪市大正区も「洪水(高潮)」の多い地域だ。既に、防潮堤や強力強制排水施設が整ってから育った私が覚えているだけでも何回か床下浸水があったし、父(72才)に聞いたら、もう少し前には、背丈ほどの床上浸水だけでも、室戸台風・枕崎台風・ジェーン台風・伊勢湾台風等があったそうだ。その都度、全国で2,000人〜5,000人規模という、今では想像もつかないような死者・行方不明者が出たそうである。5年前には、死者6,400人を出した阪神淡路大震災もあった。

ひとりの人が生きているわずか百年に満たない間でも、これだけの天災があり、その上、戦争という人災も何回かあったくらいだから、千年単位・万年単位でみれば、それこそ、高さ100メートルの洪水や津波、あるいは大噴火や大地震が発生しても少しもおかしいことはない。大洪水なんて、世界中で何度も起きているはずだ。件のチグリス川とユーフラテス川に挟まれた「メソポタミア(川と川の間の意)」地方だって例外ではなかったはずである。湾岸戦争で有名になった河口の都市バスラからウル(アブラハム故地)やウルクなど世界最古の都市のある地域まで、340kmの距離があるにもかかわらず、その高低差はわずか34mしかない。すなわち10,000分の1勾配という、ほとんど真っ平ら状態である。わが家のテニスコートには100分の2勾配というかなりの傾斜が付けられているが、それでも、時間降雨量10mmの夕立が降ったら、排水能力が負けて表面に水が浮いてくる。10,000分の1勾配なんて、「水は高きから低きへ流れる」という重力の原理よりも、表面張力や流体力学上の水の粘性のほうが遥かに勝っている。少し、大雨が降れば、すぐにあちこちに「湖」が出現したであろう。


▼「救済史」とは何か?

問題は、大洪水の有無ではなく(もちろん、大洪水はあったに決まっている)、それらの自然現象をなぜ、聖書の「神話」と結びつけたがるのか? という論理構造のほうにある。所詮は「神話」なのだから、鯨が空を飛ぼうと、兎が月で餅をつこうと一向に構わないではないか…。聖書に書かれてある諸事象が、歴史的な事実であろうとなかろうと、そんなことで、聖書の文学的価値はこれっぽっちも下がらないのである。それを、全米地理学協会(National Geologic Society)なるれっきとした科学的学術団体が、目くじら立てて「ノアの大洪水の証拠発見!」などという必要はないと考えるのは日本人的な発想である。

アブラハムの宗教(ユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒)にとっては、「歴史」は単なる歴史ではなく、神による世界の創造と人類の救済という明確な目的を持った「救済史(Heils Geschichite)」であり、文字通り「彼の物語(His-story)」→「歴史(History)」なのである。したがって、歴史を研究するということは、神の摂理を紐解くという神学的営みであり、恩寵に預かる重要な行為である。私に言わしてもらえば、戦前の「皇国史観」とほとんど変わらない。

日本にとって最大の問題は、政治家や官僚・経済人・学者さらにはメディア関係者たちといった指導的立場にある人たちの大部分が、世界の総人口の過半数を占めるこれらアブラハムの宗教の輩の論理行動の基準を解っていないところにある。これは、ある意味で、悲劇である。日本人にとっては、全く問題ではない行為が、彼らにとってはアンフェアと映ることがあるのだが、その判断基準が全く別の基準に準拠していることを両者が理解していないからである。黒船来航以来の日米交渉から始まって、太平洋戦争、そして、戦後の貿易戦争、そして現在の金融・情報化戦争、すべて「根」は同じところにある。

究極的な解決方法は2つしかない。第1は、日本人がアブラハムの宗教の輩に加わるという方法である。つまり、フィリピンや韓国みたいに、国民の多くがキリスト教徒になってしまうという方法である。しかし、強烈なアニミズム信仰(モノ・タマ・先祖崇拝等)が生きているこの国において、このプロセスが不可能に近いことは、キリシタン伝来以来450年を経て、幾万という宣教師たち相当の努力にもかかわらず、キリスト教徒が人口の1パーセントを超えたことは一度もないことからも、明らかである。

 そこで、第2の方法として、「日本人は、アブラハムの宗教の輩とは、全ての面において、論理行動の基準が異なるんだ」ということを、海外に向けて、常々から大声で主張し続けることである。もちろん、欧米標準が基となった「グローバルスタンダード」など糞食らえだし、「国連の常任理事国に入れて欲しい」なんてとんでもない。できれば、G8(サミット参加の主要8カ国)からも外してもらう。普段の広報活動によって、「日本は、世界の多くの国とはスタンダードが異なるんだ」ということをまず理解してもらってから、全ての交渉を始めるべきである。それができないのであれば、お互いにとっての悲劇を避けるために、江戸時代みたいに鎖国すればよい。私なら日本的発想の広報活動に力を入れる。柔道、寿司、ウオークマン、ファミコン、ポケモンetc.,日本発で「世界標準」になったものはいくらでもある。可能性は十分ある。


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