時運の趨く所:靖国騒動の陰で…
01年8月15日


レルネット主幹 三宅善信

▼「足して2で割る」ようなこと

 8月13日、「ついに」というか「やっと」というか、小泉純一郎総理が靖国神社へ参拝した。4月の自民党総裁選の時にも、また、7月の参議院選挙の時にも、「(小泉は)必ず8月15日に靖国神社に参拝する」と言明(公約)して2つの選挙を戦い、いずれにも圧勝したのだから、それは、自民党員や日本国民が「8月15日に靖国神社に参拝する小泉首相を信任した」ことになるのではないか。いわゆる「周辺諸国」がガタガタ言うのは別として、小泉政権を支持した大多数の国民やメディアが、小泉首相の靖国神社参拝に文句を言うのは整合性を欠いていると言わざるをえない。それなら、はじめから小泉(自民党)を支持しなければ良かったのだ。日本国政府も、「日本国民が支持した(選挙で圧勝した)総理の公約実行(靖国参拝)に対して反対するということは、貴国は日本国民の意思を蔑ろにするつもりか?」と答えてやればいい。


靖国神社に昇殿参拝する小泉総理


 誤解がないようにしていただきたい。私は、靖国神社の代弁者でもなければ、(宗教法人靖国神社を包括する)神社本庁の味方でもない。むしろ、明治国家否定論者の私は、神学的にはこれらの勢力の対極に身を置いているといってもよいことは、これまでの拙論『森を見て木を見ず:「神の国」論争』(2000年5月)や、『祀られるべきはA級戦犯?』(2001年5月)をお読みいただけば明白である。しかし、その私をして、小泉首相の靖国参拝の味方をさせてしまうのは、いかに日本国民が民主主義というシステムを理解しておらず、メディアやそのお抱え学者たちが「宗教」に対して間違って認識(というよりも、認識そのものが欠落)しているかということに警鐘を鳴らすためであり、それ以外の何ものでもない。

 さて、今回の小泉首相の靖国神社参拝への対処(結局、8月15日を避け、13日に「参拝」した)の仕方について、8月15日に同神社へ参拝した石原慎太郎東京都知事は、「足して2で割るようなことをしていると、失うものはあっても、得るものは何もない」と言った。これは、ある意味で正しい。(参拝)賛成派・反対派の両者から批判されるからである。せめて、どちらかを選択すれば、一方は完全に自分の味方にすることができる。8月14日に行われたインターネットによる「世論調査」では、「8月15日に参拝すべきであった」と「日を変えて参拝したのは正解だった」と「参拝に反対である」のそれぞれが、ほぼ3分の1づつあった。せっかく、参拝そのものに賛意を示している国民が3分の2もあるのに、この方法だと3分の1の支持しか得ることができず、政治的にも得策とは言えない。


▼虚心坦懐に熟慮を重ね…

 しかし、今回の小泉首相の靖国神社参拝への対処法を見ていて、私はある意味で、昭和天皇の『終戦の詔勅』――昭和20(1945)年8月15日に全国民に向けて放送されたいわゆる「玉音放送」――を思い出さずにはおれなかった。

「朕(ちん=天皇)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑(かんが)ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク」で格調高く始まるこの詔勅は、いろいろ述べた後、終戦(『ポツダム宣言』の受諾)の理由を、「朕カ陸海将兵ノ勇戦 朕カ百僚有司ノ励精 朕カ一億衆庶ノ奉公 各々最善ヲ尽セルニ拘(かかわ)ラス 戦局必スシモ好転セス 世界ノ大勢亦(また)我ニ利アラス」と分析し、最終的には「朕ハ 時運ノ趨(おもむ)ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」と諭されている。

 小泉氏自身の公約であり、2つの選挙で勝ったのだから、自民党員と国民の総意(多数意見)であるはずの「8月15日の靖国神社参拝」を、「周辺諸国(日米安保のガイドラインが規定する「日本周辺有事」とはまさにこの地域のこと)」からのちょっとした抵抗に遭っただけで腰砕けになってしまい、熟慮に熟慮を重ねた結果、「非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し」、虚心坦懐に盟友山崎拓幹事長の「TPO提言」を聞き入れ、「時運の趨く所 堪へ難きを堪へ忍ぶ難きを忍び 以て万世の為に太平を開かむと欲す」という大義名分で、13日に靖国を参拝したのであろう。日本人の思考パターンが半世紀を経過しても、まったく変わっていないことの証拠である。『終戦の詔勅』の起草段階でも、原案は「義明ノ存スル所」となっていたのを、確か、時の官房長官が誰かが、「時運ノ趨ク所」に変更したそうだ。「義明ノ存スル所」と言ってしまえば、善悪正邪をハッキリさせなければならなくなってしまうが、「時運ノ趨ク所」と言えば、これはいわば「天災」みたいなもので、人為の埒外(らちがい)のこととして、誰も責任を取らなくていいことになってしまう。うまいこと考えたものだ。否、「考えた」というよりは、日本人の「血(本性)」が自然にそういう表現を選ばせたのであろう。

 これでは、これまで「有言実行」を売り物にしてきた小泉首相の人気にも翳りが生じることになるであろう。小泉氏は、参議院選挙(7月29日)までは「必ず8月15日に靖国神社に参る」と言ってきたのに、終戦記念日が近づくに連れてトーンダウンし、「虚心坦懐に熟慮して」という表現から、8月の第2週に入ったら、「口はひとつでも、耳はふたつある。人の言うことを良く聞いてという意味だ」というふうに方向転換を計っていった。私は言いたい。「口はひとつでも、舌は二枚ある」と…。こんなことでは、「痛みを伴う構造改革」なんて実行できるはずがない。(構造改革という)総論は賛成であっても、改革に伴う「痛み」が自らの周辺に及んでくると、一斉に「(ここだけは)緩めてくれ!」という声が挙がってくるだろう。周辺諸国の言うことを聞く首相が、「票」を持っている有権者の言うことを聞かない道理はないであろう。結局、なにひとつ抜本的な構造改革のできぬままに、景気だけがさらに悪化するに違いない。


▼文句は靖国神社に言え

 話を「靖国問題」に戻そう。先頃、中国を訪問した野中広務元幹事長が、中国側の政府要人との会談で「A級戦犯の分祀」について会談したそうだが、これなど憲法違反も甚だしい。なぜ、足下に「直接、靖国神社に言いなさい」と言わなかったのであろうか。一宗教法人である靖国神社が、ご祭神に、"英霊"どころか、狐を祀ろうが狸を祀ろうが、そんなこと神社(当該宗教法人)の勝手である。もし、政府が特定の神社や寺院に、「この神を祀るな」とか「この菩薩を奉れ」とか言ったりしたら、信教の自由と政教分離の原則を犯したことになる。したがって、靖国神社に誰を祀ろうと祀ろまいと、日本国政府の知ったことではない(介入してはいけない)のである。中国も韓国も、その他の国々も、直接、靖国神社へ文句を言うべきである。それをまた、聞くか聞かないかは靖国神社の自由である。ただ、靖国神社としては、「公益法人」のひとつである宗教法人格を有しているのであるから、社会存在としての応答責任があるのはいうまでもない。すなわち、「Yesか、Noか」をハッキリ答えればいいのである。

 同様に、韓国の国会議員などから日本国政府に強く要請されている「韓国人の戦争犠牲者で靖国神社に合祀されている約2万柱の"英霊"の合祀をはずして(分祀して)ほしい」という訴えも、頼む相手が間違っている。靖国神社に直接、訴える(依頼する)べきである。スターリンであろうが、毛沢東であろうが、誰(外国人でも)をご祭神として祀るかは、これまた当該神社の勝手であり、分祀することもまた、当該神社の自由裁量の中にある。


▼「歴史教科書問題」の問題点

 これらの話を側聞すれば、両国共に、「政教分離という近代民主主義国家の大前提」すら十分整っていない国と言わざるを得ない。もちろん、「政教分離」の原則を採用するかしないかは、当該国の勝手であるけれども…。同じことは、いわゆる「歴史教科書問題」についても言える。中国や韓国は、「国定教科書」制度を採用しているそうだが、日本は、民間の会社が作った教科書(候補)を、文部科学省が「検定」し、この検定を通過した複数の教科書(候補)を、各自治体の教育委員会等で審議して、各学校別に「採用」するのであって、文部科学省の「検定」を通過した教科書であれば、「採用」については、現場の「裁量」に委ねられている。誰がどんな教科書を作ろうとその人の勝手だし、文部科学省がどのように検定しようと文部科学省の勝手だし、現場がどの教科書を採用しようと現場の勝手である。逆に、われわれ日本人が、中国や韓国の「国定教科書」の内容にケチをつけたら、彼らは「不当な内政干渉だ」と反論するであろう。

 ただ、誤解がないように言っておくが、私は、いわゆる「新しい教科書をつくる会」の歴史教科書を支持している訳ではない。むしろ、「つくる会」の教科書の内容には反対である。理由は簡単である。あまりにも、非日本的な社会文化である「近代(明治国家体制)」を重要視するあまり、日本文化が理想的に咲き競っている近世の江戸文化を軽視しすぎているからである。ほとんど外国の文物に依存することなく、公(伝統文化)・武(統治機構)の役割分担や、高度な地方自治の制度が整っていた徳川時代こそ、"日本文明"として諸外国に誇るべき内容を備えていると思うからである。

 さらに、「教科書問題」についてもっと言えば、そもそも、文部科学省による「検定」制度そのものすら必要ないと思っている。たとえ、「1+1」の答を「2」ではなく、「3」と書いた教科書を誰かが作ったとしても、そんな教科書は売れない(現場で採用されない)であろう。同様に、歴史や国語の教科書についても、自ずから「分別の範囲内」に収まるものと考えられる。まったく、教科書出版会社の自由にすればよい。そうすれば、周辺諸国からガタガタ言われる筋合いもなくなるであろう。なんでも、かんでも国が決めなければならないという発想が間違っている。


▼"無宗教の"慰霊施設?

 もうひとつ、よく言われるバカげた解決方法について私の意見を述べたい。政治家やメディアの御用識者曰わく、「(靖国神社という)神道形式にこだわるからいけないんだ。千鳥が淵などの国立墓苑を整備し、すべての日本人だけでなく公賓も含めた外国人も参拝することができる、戦争犠牲者のための"無宗教の"慰霊施設を造るべきだ」と…。全然、宗教の本質が解っていない証拠だ。「慰霊」という行為が成り立つ前提には、「霊魂の存在(はたらき)」を信じる(否定しない)ということがいる。これって、宗教以外の何ものでもないではないか…。したがって、「無宗教の慰霊施設」というものは、論理的には存在しえない。たとえ、それが公営であろうがなかろうが…。

 私がこういうふうに言うと、おそらく多くの人は、「ここで言う"無宗教の"という意味は、具体的な神道やキリスト教といった"宗教教派に属する"という意味ではないという意味だ」と答えるであろう。では、それはいったい何をさしているのだ? と聞けば、「個別的な教義や儀礼(教派教団)を超えた、普遍的な精神性や死者の霊を弔うという感性のことだ」と、多くの日本人は答えるであろう。これって「アニミズム」以外の何ものでもないではないか。多くの日本人が、「あなたの宗教は何ですか?」と聞かれたときに、勝手に、与えられた質問を「あなたの所属している教派教団は何ですか?」というように置き換えて、「私は"無宗教"です」と答えているのである。私も含めて、圧倒的多数の日本人にとって、「あなたの宗教は何ですか?」と聞かれたら、「私の宗教はアニミズム(日本教)です」と答えるべきである。そこで、さらに踏み込んで、「あなたは何教・何宗の信者ですか?」と聞かれたら、「私は○○宗の檀家です」とか、「私は特定の教団には属していません」と答えるのが論理的に正しい回答である。

 極めて少数であろうが、本物の無神論者や唯物論者にとっては、戦争犠牲者の慰霊・追悼施設なんて意味がない。そもそも、霊性という前提が成り立っていないのであるから…。しかし、圧倒的多数のアニミズムの輩(日本人)にとっては、「慰霊」という行為は、その人がどの宗教教派に属していたとしても、極めて重要なテーマである。そして、アニミズムの輩の観点からすれば、カミ的存在とは、まさしく映画『千と千尋の神隠し』の湯屋に集っているような蛙や雛といったキャラクターまで全て「八百万の神々」ということになってしまうのだから、山川草木悉皆成仏、A級戦犯も外国人もひっくるめて全て「英霊」という感覚になってしまうのであろう。まさに、「時運の趨く所」なのである。


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