猿以下の惑星
01年09月22日


レルネット主幹 三宅善信

▼SF映画の金字塔

 今回の同時多発テロ事件と、それに対する一連のアメリカ側の反応を見ていて、私はある映画作品のことを思い出していた。その映画作品とは『猿の惑星(Planet of the Apes)』のことである。もちろん、この『猿の惑星』とは、この夏封切られたティム・バートン監督のリメイク版の『猿の惑星』ではなく、今から33年前に封切られたチャールトン・ヘストン主演のオリジナルの『猿の惑星』である。

 現実世界では、アポロ計画によって、まさしく人類が地球以外の天体(月)に、その第一歩を記そうとしていた。この時期に創られた2本の映画、すなわち『2001年宇宙の旅:2001 A Space Oddesay』と『猿の惑星』は宇宙を舞台にしたScience Fictionという分野を切り拓いた作品といえる。『2001年宇宙の旅』の並外れた科学技術の考証(まだ、誰も月面に立った者はいなかったのに、月面での人や作業車の動きは秀逸の一語に尽きる)と『猿の惑星』のあの衝撃的な結末……。まさに、SF映画の金字塔といえる。両作品に共通するアイディアは、「ヒトという裸のサル」の運命であった。

 小学生であった私が『猿の惑星』を観て一番驚いたのは、映画に登場する猿たち(厳密に言えば類人猿たち)のメイクであった。それまでのメイクといえば――もちろん、この場合のメイクというのは、人間が他の動物に化けるという意味のメイクであるが――日本の怪獣映画にしろ、ハリウッドのホラー映画にしろ、お粗末なもので、いわば「着ぐるみ」に入るか、無表情な「お面」を着けているという状態だったが、この映画に登場する類人猿たちは、個性があって、皆それぞれに「表情」が豊かで、まさに特殊メイクの分野に新しい世界を切り拓いた作品と言える。クラスメイトの中に少し「猿顔」の奴がいると、すぐ、皆から「コーネリアス、コーネリアス(映画『猿の惑星』に登場する、人間に理解を示している"進歩的な類人猿"の科学者二人組みのうちの男性がコーネリアス、女性がジーラ)」と揶揄されていた。


▼『十戒』→『ベン・ハー』→『猿の惑星』


 しかし、この映画は多感な思春期の私に、反米感情の根を植え付けた映画であったと言っても過言ではない。その原因を謎解きするために、もう少し、ある人物についての"映画史"について遡らなければならない。確かに『猿の惑星』は、SF映画として画期的な作品であった。この映画の宗教性は、ある俳優を主役に採用したときに運命づけられているのである。その主演とは大スペクタクル映画の主役しかしない大御所あのチャールトン・ヘストンである。チャールトン・ヘストンと言えば、真っ先に思い浮かべるのがセシル・デミル監督の『十戒』である。長年エジプトで奴隷をさせられたイスラエルの人々(ユダヤ人)を神(ヤハウェ)の命令によって導き出すモーゼの一生を描いた旧約聖書の『出エジプト記』(第6〜9章)の話を映画化した大作である。モーゼの義兄で敵役になる若きファラオがユル・ブリンナーというのもいい。エジプトを脱出した武器を持たないユダヤ人たちは、重装備のファラオの軍隊に追いつかれそうになる。目の前には紅海が広がり、行くこともできず、退くこともできない絶体絶命のピンチの時に、紅海が真っ二つに割れ、ユダヤ人たちが無事紅海を渡った直後に、これを追いかけてくるファラオの軍隊が、神(ヤハウェ)の怒りによって海の中の道が閉じられ全滅してしまうという、今でいうSFXのシーンがあまりにも有名である。この映画でチャールトン・ヘストンは主演のモーゼを演じた。

 次にチャールトン・ヘストン主演の映画といえば、なんと言っても、その年のアカデミー賞を13部門で獲った『ベン・ハー(Ben Hur)』がある。この物語は、その副題『The Tale of Christ』にもあるように、すなわち、キリストの物語である。ただし、映画の中でイエスはほとんど姿を見せない。物語の最初の頃に、友達であったローマ人の士官に裏切られたユダヤ人の富豪の息子ユダ・ベン・ハーが、ローマに奴隷として連れて行かれるときに水を与えてくれる人として少し影が映り、そして、物語の最後の部分で、ゴルゴダの丘に十字架を背負って登っていくイエスの足元が少し映るというだけなのであるが、このユダヤ人ベン・ハーの生涯を描くことによって、実はイエス・キリストという人を描いているという名作である。

 この映画は実に多くの映画に影響を与えた。最も有名な古代ローマの競技場における(4頭立ての馬車に曳かせた)戦車レースのシーンは、後に、007シリーズ第4話『サンダーボール作戦』における初代ボンド・カーのアストンマーチンによるカーチェイスの場面でも応用されたし、また、最近では『スター・ウォーズ:EpisodeT』のアナキン少年とエイリアンたちの、砂の惑星タトゥイーンでのポッドレースのシーンにもまるまる借用されたという名場面である。

 この二つの映画で主演したチャールトン・ヘストンは「超大作にしか出演しない人」という印象が、少年時代の私の中で出来上っていた。この"大御所"チャールトン・ヘストンが主演した『猿の惑星』であるだけに、まさにこの映画は『十戒』並びに『ベン・ハー』に匹敵する超大作のはずである。ちなみに「ベン・ハー」の「ベン」はヘブル語で「だれだれの息子」という意味である。こういう命名法は父系の族長社会であるセム語文化の特徴的風習である。つまり、「ベン・ハー」というのは「ハーの息子」ということになる。今回のテロ事件の首謀者と目されるウサマ・ビン・ラディン(Osama bin Laden)氏の「ビン」も、同じ「だれだれの息子」という意味である。すなわち「ラディンの息子」という意味で、命名法からして同一文化圏の話であることが判る。

▼愚かな"裸のサル"である人間

 それでは、問題の映画『猿の惑星』のストーリーについて、少し説明しよう。現在、上映中の同題名の映画と基本的に粗筋は違わない。『猿の惑星』のストーリーとはこうだ。チャールトン・ヘストン演じる宇宙飛行士を乗せた宇宙船が、事故で謎の惑星に不時着する。その惑星は、気候風土が地球そっくりの惑星であった。豊かな自然に恵まれた土地に、見かけ上は人類(この"人類"が曲者であるが)とそっくりの人々(何故か白人だけ)がいて、原始的な生活を送っている。地球へ帰ることが不可能と判った宇宙飛行士はこの人類に共感を覚え、彼らと暮してゆこうと思うが、そこに、突然銃声が轟いて、馬に乗ったこの星の支配者が現れ、その人類はただ単に逃げ惑い、遂には彼らに捕えられ、檻に入れられられるのである。その馬上の支配者というのが、実は(見かけ上は)猿なのである。

 つまり、われわれの世界におけるヒトとサルの役割が、入れ替わっているのである。馬に乗って、服を着て、武器を持ったゴリラの兵隊が、ヒトを連れて行き、檻に入れ、家畜として扱うのである。面白いことに、この星の猿の社会というのが、人間の社会そっくりで、政治的な指導者もいれば、科学者もいるし軍人もいる。また民間人もいる。そこで言葉を話すことのできないヒト(裸のサル)は、ただ単に家畜として扱われるのである。この辺りは『ガリバー旅行記』の最終編『フィヌム国漂流記』において、yahooと呼ばれる家畜人とHnhnmと呼ばれる馬そっくりな支配者とが入れ替わった世界を描写しているのと同じである。

 ただし、主役の宇宙飛行士は、ガリバー同様、この見かけ上ヒト(知能はサル以下)というもののほうに肩入れをする。他の人々と一緒に捕まった彼は、最初は他の家畜として飼われているヒトと同じように扱われるのであるが、さすがは優秀な宇宙飛行士だけあって、いろんな知恵を発揮して抵抗を試みることによって、猿の中の科学者――これが、チンパンジーと思しきコーネリアスとジーラというカップル――に人間ばなれした特殊な能力(知恵があるということ)を見出され、コーネリアスとジーラはこの類い稀なヒト(すなわち猿なみに高度なヒト)に感情移入をするようになる。

 ところがこのようなサル並に優れたヒトがいるということが問題になる。彼らの社会を根底から揺さぶる問題に発展するのである。彼らの"聖書"によると、神は「神の姿(Imago Dei)」に似せて猿を創造したのであって、それ故、猿は尊い存在なのであるが、「愚かな裸のサルであるヒト」が知性を持っていることが判明すると、彼らの神学的前提が崩壊することになってしまう。初めのうちは、猿の社会の権威者たちは、そのことに目を瞑ろうとするが、人にこのような能力(つまり、猿と同じ優れた能力)があるということを知った彼らは、愕然として、このようなヒトを生かしておくことによって、ヒトが将来猿に取って代わるのではないかという危惧の念を抱き、彼を亡き者にしようとするのである。

▼白人だけが人間である

 その中で、ヘストンは無知なヒトの中から青眼金髪のグラマーな(彼らは新しいアダムとイブになるつもりだから、子供のたくさん産めそうな)白人のおねえちゃんとほどよい仲(やはり、ブロンド美人は得だ)になって、彼女と一緒に猿が支配する社会から逃げ出そうというのである。そして、猿の兵隊に追われた二人は、ジーラ(ヘストンに気があったにもかかわらず、見かけがサルの彼女にヘストンは見向きもしない)の制止も聞かずに、猿たちが「この地域から向こう側は危険だ」と言っていた"禁断の地"へ、しょうことなしに逃げて行くのである。そして、兵に追いつめられて逃げ込んだその"禁断の地"の洞窟の中で、ヘストン演じる宇宙飛行士が見たものは、なんと、変わり果てた姿の「自由の女神」なのである。これが、この映画の衝撃的な結末である。

 つまり、この「猿の惑星」というのは、宇宙のどこかにある他の星ではなく、何万年後かの地球のことだったのである。人類の文明が人間同士の争いによって亡び(ここでも、人類の物質文明の象徴はマンハッタンであった)、その後、サル(正確には類人猿)が急激に知能を付け、現在の人間の立場に取って代わったわけである。その間、地球の辺境部で細々と生き残った人間は、いわば"猿以下の存在"となったのである。その意味で、この作品は、「人間存在の意味を問う」という点で、『十戒』や『ベン・ハー』に勝るとも劣らない、チャールトン・ヘストンが主演するにふさわしい大作である。SF作品としては、なかなか興味深い話ではあるが、この映画のそこかしこにかなり人種偏見的な要素が含まれているのもまた事実である。すなわち、この映画に登場するヒトは全て白人なのである。白人以外のヒトはいない。そして、そのことは、あたかも、この映画に登場するゴリラ(兵隊役)・チンパンジー(科学者役)・オランウータン(長老役)などの類人猿たちは、実は、アフリカ系であったり、モンゴロイドであったりということを暗に意図しているのである。つまり、アフリカ系やモンゴロイドは猿と共通の先祖、あるいは猿から進化したものであるという認識で捉えており、白人は全く別の種類の存在だというのである。つまり、白人は、旧約聖書の『創世記』に書かれているアダムとイブから始まった、神によって創造されたものであり、それ以外のものは類人猿と同類である。つまり、この映画の原題である『Planet of the Apes』のapesすなわち、類人猿たちということを表わしているのである。

▼チャールトン・ヘストンとブッシュ政権

 今回の、同時多発テロ事件が起きた時に、いみじくもブッシュ大統領は「このテロはアメリカに対するテロというだけではない。"人類文明"に対する挑戦である」と宣言した。確かに、無差別なテロ攻撃は、憎むべき犯罪行為である。しかし、これを「"人類文明"に対する挑戦」と呼ぶのはとんでもない間違いである。アメリカが敵対視するイスラム教原理主義勢力というのは人類ではないのか? もちろん、人類以外のなにものでもない。これらの諸問題は、とりもなおさず人間が持つ問題性であり、人間が解決すべき問題そのものであるにも関わらず、「人類文明に対する敵」、「自由と民主主義に対する敵」というふうに、神ならぬ身のブッシュ大統領が彼らを断罪しきれるものであろうか? 前々作でも述べたように、「人類に対する攻撃」と言うのなら、それは、宇宙人でも攻めてきたときになら言えるが、地球上の人間同士の戦いは、決して「人類に対する攻撃」ではない。

 このブッシュ大統領が選挙で選ばれる背景については、一昨年の作品『宗教右派:大統領選挙に見るアメリカ人の宗教意識』で詳しく論じたので、アメリカにおける「宗教右派」がどのように政治に影響を与えているかについては、その項を読んでいただければ判かると思うが、このブッシュ大統領を実現した右派勢力の巨大なロビー(圧力団体)のうちのひとつであるガン・コントロール(銃規制)に反対するNRA(全米ライフル協会)の会長が、こともあろうかこのチャールトン・ヘストンその人なのである。映画『猿の惑星』で、人類が亡んだ証拠となる場面がニューヨークであるのがなんとも皮肉である。また、その主演の俳優が、実に『十戒』において、エジプトでの奴隷状態からイスラエルを救出した伝説の英雄的預言者モーゼを演じ、また、『ベン・ハー』において、キリスト(救世主の出現)を称え、そしてまた『猿の惑星』で、人類の将来を演じた大御所チャールトン・ヘストンの話と、今回のブッシュ政権対イスラム原理主義者の戦いには、何かしらの因縁めいたものを感じるのは私だけではあるまい。


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