南の島で観た「米製ゴジラ」 1998.5.30

「レルネット」主幹 三宅善信

5月28日、環太平洋地域における日本統治下の宗教政策調査のために訪れていたグアム島(アメリカ合衆国の準州)の映画館で、話題のハリウッド映画『Godzilla(ゴジラ)』を観た。1週間ほど前にブロードウエーで公開されたのは知っていたが、日本での公開は夏休みの頃だと聞いていたので、まさかこのような辺境の地(アメリカ人の99%は太平洋上に「グアム」というアメリカ領の島が存在することすら知らない)で、最新のハリウッド映画を観ることができるとは思ってもいなかった。

われわれの世代(1958年生まれ)は、ガメラやウルトラマンといった「怪獣もの」を観て育った世代なので、40歳になる現在でも、「ゴジラハリウッドで復活!」などと聞くと心が騒いでしまう。十数年前にハーバード大学の研究所にいた頃、アメリカ人の友人から「日本製映画の『Godzilla(ゴジラ)』は、アメリカでも何度も上映されているので、たいていの人は知っているよ」と聞いて驚いたことがある。ほとんどのアメリカ人は、日本の総理大臣の名前ですら知らないのにゴジラの名前は知っているのか… と変に感心したものだ。もちろん、大人になってからは「怪獣もの」など観る機会がなかったが、今は「子育て中世代」なので、子供たちと一緒に、結構、こういうテレビ番組を視る機会がある。子供は「怪獣大好き」だから、親にいろいろと尋ねてくる(『怪獣百科』のごとき書物があって、かなり詳しい解説がされている)が、こちらも彼らから見ればかなりマニアックな話(単に昔話だけなのだが)を知っていたりして、変なところで子供から尊敬されたりする。

グアムのローカル紙の上映案内欄で『Godzilla(ゴジラ)』を見つけた私は早速、映画館に足を運んだ。行ってみて驚いたのだが、最新の「シネマコンプレックス」と呼ばれるタイプの映画館だった。「シネマコンプレックス」とは、文字どおり「複合的映画館」のことである。ひとつの建物の中に、通常10件くらいの小規模な映画館が同居している。入場券を販売する場所や改札する場所は一個所でよいから、人件費も大幅に削減されるということだ。それに、誰でも経験したことがあると思うが、せっかく、映画館に着いても、時間が中途半端で、上映中の映画を途中から観て、一旦、最後まで見終わってから、引き続き最初の部分から見直しても、最後の「オチ」が判ってしまっているので、面白くない。ところが、この映画館では「ゴジラ」だけでも30分づつずらして3本を上映しているので、いつ観に来ても、最初から観ることができる。しかも、大人の入場料が5ドルで、日本の1,800円と比べて格段に安く、これなら毎週、観に行くことができる。日本の映画会社ももっと工夫すべきである。私が行ったときも、午後7:30スタートという時間帯なのに、子供連れの観客で満席だった。

さて、本題に戻るが、『Godzilla』そのもののストーリーは、あの円谷英二が特撮を担当した怪獣映画史上不朽の名作『ゴジラ』(東宝・1954年)のストーリーをプロットとしている。簡単に紹介すれば、南太平洋のフランス領の島で核実験が行われ、その放射能を浴びた爬虫類がDNAに変調をきたし、巨大化した怪獣(足跡や尻尾の一部だけを写し、その全貌は伏せてある)となり、それがアメリカ文明の象徴であるニューヨークに上陸して大暴れするという形である。日本の怪獣映画もそうだが、どうも怪獣というのは東京やニューヨークといった大都市を破壊するのが好きなようだ。それを軍隊が出てきて、苦戦の末、最新の兵器(潜水艦や戦闘機からのミサイル)でやっつけるという筋だ。そこに、恋愛ものやスパイものなどのストーリーを絡ませて一本の映画作品に仕立ててある。

よく映画評論家などが「CG技術が素晴らしい」などとしたり顔で誉めているが、私の目には、直立二足歩行(着ぐるみの中に人間が入っているのだから当然といえば当然なのだが)で、ゆっくり(大きいものほど動きがゆっくりと見えるという道理に適っている)と動く和製ゴジラの方が気品があるように思う。今度の米製Godzillaは、CG技術で言えば、『ジュラッシクパーク』の焼き直しで、巨大な怪獣があんなに早く動き回れるはずがない。マジソンスクエアガーデンでのベビーゴジラたちとの追いかけっこのシーンなんか『ジュラッシクパーク』そのものだ。また、肝心のゴジラの表情の下品さは『エイリアン』並である。哀愁というものが感じられない。ストーリーも、どこか別の映画でみたようなシーンばかりで、陳腐である。

何より最大の問題点は、人間のばかげた核開発のせいで「怪獣」と化してしまったゴジラを最新鋭の兵器で倒してハッピーエンドというだけでは、なんらメッセージ性がない。芹澤博士が自ら開発した「オキシジェンデストロイア」という凄まじい破壊力を秘めた化学物質を使って、ゴジラを倒すために自らも東京湾に没し(しかも、この化学物質が兵器として利用されることを防ぐために、書類をすべて消却し、開発者である自分も死ぬことで秘密を守る)、滅び行くゴジラと運命を共にしたあの和製ゴジラの感動的なラストシーンと比べて、あまりに人間中心主義的ではないだろうか? 

意識するとしないにかかわらず、ユダヤ・キリスト・イスラム教的な文化背景(創造主である「全能」の神から、世界=環境を支配することを委ねられている人間が、非造物である自然=生物に対して何をしても構わないという発想)を持つ欧米人と、アニミズム的な「一切衆生悉有仏性」つまり、石や草木に至るまで人間と共通する精神性を有するという日本的思想が相容れないのは当然である。つまり、Godzillaは憎むべきモンスターであり、ゴジラは自分の意志に関係なく人間によって化け物にされた哀愁を持った怪獣なのである。

映画を観終わった後のそのような空虚感を持ってホテルに戻ってテレビをつけたら、なんと「パキスタンが核実験を実施した」というニュースが飛び込んできた。核兵器の持つ本質的な非人道性を無視し、核兵器を恐怖による抑止力としての効果としてしか見ないパキスタンのシャリフ首相の発言(日本も核兵器を持っていれば、広島や長崎に原爆を投下されることはなかった)を聞いて、なんとも言えないもの感じた。極東や中東有事の際のアメリカ軍の前線基地になるこのグアム島にも、数百発の核兵器が貯蔵されていることも知らずに、呑気にビーチで戯れる日本人観光客は、このことをどのように思うのであろうか? 

もちろん、国連の常任理事国(すなわち、第二次大戦の戦勝国)だけに核兵器の保有を認めた「NPT(核不拡散条約)体制」を私は支持しない。もし、核兵器の保有が戦争の抑止力として有効なのであれば、世界中の全ての国に核兵器(米露両国だけで数万発もある)を配れば、誰も戦争を起こせない「平和な」状態になるではないか。しかし、そんなことは誰も信じないだろう。つまり、「核抑止力」の理論は、そもそも矛盾を内包しているのだ。

先々週のインドの核実験、先週のインドネシアのスハルト政権の崩壊、今週のパキスタンの核実験などを見ていると、これらの国には、すべて日本から巨額のODA(政府開発援助=つまり、われわれの税金)が投入されている。これらの国々は、日本から援助してもらった金で、日本の反対するもの(核開発)やこと(人権の抑圧)をしているのである。日本国政府はどのように責任を取るつもりなのであろう。一層のこと、ODAなんかすべて廃止してしまった方がいい。こんなもの、日本の役人とゼネコン、それに現地の独裁者を太らすだけのものである。財政難のこの時期、考え直す必要があるのではないか? それよりも、相手国の困った民衆に直接物資やサービスが届く民間のNGOにその資金を回した方が遥かに役に立つのではないだろうか。

映画ひとつを観ても、文化や宗教的背景の違いというところまで踏み込んで観ると、いろいろと考えさせられるところがあって、思いがけない勉強の機会になった。


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