★タリバンによる仏教遺跡破壊に対するコメント特集★


 今回のアフガニスタンのイスラム教原理主義政権タリバンによる仏教遺跡破壊に対して、以下のような趣旨の質問を何人かの識者に質問したところ、すぐに返信が寄せられました。その回答に対するさらなるコメントも寄せられ、宗教の本質を考えるのに、良いケースだと思いますので、一部を紹介させていただきます。レルネット読者の皆様もご意見があれば、お寄せいただきたいと思います。 
レルネット主幹 三宅善信


【質問設定 3月4日】

 "昨日から、アフガニスタンを実効支配するタリバンが、有名な仏教遺跡バーミヤン石窟寺院をはじめ、各地で非イスラム彫像の破壊活動を始めましたが、本件についてどのようなお考えをお持ちでしょうか? もちろん、第一義的には、イスラムは偶像を拒否することになっていますが、そして、それ故、歴史的に中央アジアの仏教遺跡の顔面だけが削り取られたものもたくさんありますが、今日の世界的状況において、今回の行動はプラスに作用するとは思えにくいにですが。イランだって、アヤトラの顔写真は山ほど掲示されていますし、イラクなんかフセイン大統領の銅像まであります。その辺の関係はいかに? それから、メッカの巡礼が始まったようですが、そのことと今回のタリバンの命令とは何か関係があるのでしょうか?"


■ イスラームそのものの根拠の中に基盤が埋め込まれている                      
01年03月05日
作家 小滝 透
 
偶像破壊に論理は、確かコーラン五章九十節などに載っていることがまず挙げられます。ついで、ムハンマドの生涯を預言者伝などで見てみると、彼がメッカに無血入城を果たした折、カーバ神殿にまつられてあった無慮無数の偶像を徹底して破壊したとあります。どの宗教でもそうですが、開祖や教祖(この場合のムハンマドは最終預言者ですが)といった人々は、信者の模範になるわけですから、ムハンマドがこのことをやったということは実に大きな意味を持ちます。

 ですから、何もタリバーンのような原理主義者だけが偶像破壊を行うのではなく、イスラームそのものの根拠の中にそのような基盤が埋め込まれているのです。したがって、ここの所を改定しないと、イスラームの偶像破壊は止みません。

 ちなみに、ホメイニやフセインの顔写真が並んでいる件についてですが、あれはそれこそイスラームから言えば駄目なわけで、そのような現象がイスラーム諸国に多いというのはまことに皮肉なものと言わざるをえなせん。

 最後にメッカ巡礼と偶像破壊との関連ですが、これは直接は何もないと思います。ただ、巡礼期間は人々の精神が非常に高揚する時なので、その事に関しては間接的に若干の関係があるかもしれません。



【質問設定 3月5日】


 "問題は、今回の「蛮行(もちろん、非イスラム側からの観点)」について、国連や各国政府、NGO、学術関係者などが批判をしている。あるいは、メトロポリタン美術館だけでなく、イラン政府まで「仏像(遺跡)を買い取りたい」と言っているようですが、そのことについてどのように考えますか?

 あるいは、そのことに対するタイリバンの回答(ノー)については? ここは、一応、強硬姿勢を取っておいて、国内を引き締めるとか、あるいは、どこかで妥協して、国際援助をせしめる条件闘争であるとか…? メディアのニュースをみても、その辺のところの解説がまるでなされていないように思います。"



■ 孤立化した国がよく陥るパターン   
          
01年03月05日
作家 小滝 透
 
 この一件が文化的大蛮行であることは論を待ちません。どこから見てもとんでもない蛮行です。従って、各国政府や国連等々がこれを買い取ることを申し出るのは当然のことだと思います。

 ちなみに、日本国内のイスラーム団体がどれ一つこの蛮行に反対の意思表明をしていないことは問題だと思っています。実は、私は三十年来の日本イスラーム友愛協会(ムスリムと非ムスリムの連合体)の会員なのですが、残念ながら、この蛮行に抗議することができないのですが、私は日本のイスラーム団体こそこの蛮行に抗議をすべきだと考えています。もしそのようなことを怠ると、黙認と見なされ、同じ穴の狢となることは必定だからです。

 最後に、タリバーンの仏像破壊は、新聞などでは「国際社会への当てつけ」のようにとらえられる論調がありましが、私もそうだと思っています。本来なら「これをネタに国際援助を引き出す」ような方途を選ぶのが合理的なようですが、おそらく精神的な余裕がないのでしょう。孤立化した国がよく陥るものだと考えていいのではないでしょうか。


■アフガンは百年戦争 
                  
01年03月07日
                   天理大学おやさと研究所所長 井上昭夫
 
 資金あつめが目的だと思います。日本はその手に乗って6億円もって松波議員がタリバーンに会いに行きます。破壊のスピードは一時弱まり、又始めるでしょう。敦煌莫高窟の観光政策も同じ手でした。シルクロード上の民族を甘く見るとだめでしょう。

 全部破壊はしないでしょう(カブール博物館)。それでは金がとれなくなる。仏像がいのちを救うのですから、きわめてタリバーンのやりかたは仏教的です。一休さんでしたかね、木像をもやして暖をとったのは。タリバーンは一休を遙かに超えています、本質はおなじ線上にあるのではないでしょうか。礼拝偶像をもたない天理教者ののんきな感想かもしれませんが。

 イスラム・ファンダメンタリズムの突きつける問題は、彼らが命を懸けている故により先鋭に出てきているに過ぎないと思います。援助するのなら、命を懸けて同じようにやらないと、小手先では問題の解決は出来ないと思います。今のところ、タリバーンがみずから答えを出すのではないでしょうか。私は最初から「アフガンは100年戦争だ(『宗教多元主義とグローバリゼーションの行方』参照)と言って来ました。そのように成りつつあるようです。


■「歴史」の擁護か、神の「現在」か   
        
01年03月08日
                            萬 遜樹
 
 今回の反対論に一致して見られます特徴は、「歴史」の擁護です。人間が作った歴史的文化財の擁護です。これを裏返して見れば、タリバーンの主張になるものと思われます。つまり「反歴史」であり、それは神の現在の擁護だと思われます。

 思えば、私たちはヨーロッパ流の「歴史」的思考を自明のものとしていますが、非ヨーロッパ世界ではかってはそうではありませんでした。日本を始めアジアの大半はそれに呑み込まれてしまいましたが、イスラム世界は「反歴史」を守護する者たちが最後に隠れ棲む所なのでしょう。

 ヘブライズムの「インマヌエル」(神と共に)に当たる「イン・シャー・アッラー」(神の意志あらば)は、因果連続的時間、つまり歴史の否定です。神の現在だけを生きようとする過激な熱情が、タリバーンを突き動かしているように思います。

 スンニー過激派は、イラン・シーア派を超えた原理復古主義者なのです。タリバーン戦士には私設イスラム神学校の卒業生が多く送り込まれています。彼らはスンマ(イスラム共同体)をめざし、シャーリア(イスラム法)を完全復活させることを学んでいるのです。

 もちろんタリバーンのアフガン支配などの現実的政治的「成功」は、国際政治のバランス・オブ・パワーによって成し得たことですが、彼らの主観はそれとはずいぶんとかけ離れた所にあるように思います。国際や歴史とは決別した世界をめざした「永久革命」運動に突入しようとしているのではないでしょうか。

 サウジは言うまでもなく、フセインのイラクも、一面ではヨーロッパ流の歴史を呑み込んでいます。あのイランでさえ「西欧派」が政治を実質運営しています。イスラム世界が歴史を受け容れたのは、欧米との対抗手段としてです。現実を前提にしていると言えます。そういう意味で、スンニー過激派は非現実主義者(理想主義者)なのでしょう。

 しかし自明のこととして、タリバーンの革命もやがて「風化」せざるを得ないでしょう。ヨーロッパ的「普遍」は非ヨーロッパ的「野蛮」を「文明」化してしまうのです。そう考えると、否応なく「世界史」に巻き込まれていった私たち自身を見ているようで、切なさすら感じてしまうのは過敏な感性でしょうか。


■ 文明間の衝突を端的に予感する事件            
01年03月08日
                             作家 小滝 透
 
 萬さんのセンスは非常に鋭く、おもしろく読ませてもらいました。ヨーロッパとイスラーム世界の相違も的確にとらえており、感心しました。

 そうなのです。この問題は現在最も大きな問題になりつつある文明間の衝突を端的に予感する事件なのです。サミエル・ハンチントンの文明の衝突は西欧文明とイスラーム文明の衝突を土台にして組み立てられたものですが、それが世界の至る所で現れているのです。イスラーム原理主義者の持つ西欧文明への激しい憎悪、怨念、そして自らの文明の中核にある宗教(イスラーム)を金科玉条のものにして、他宗派解体を目指す動きはそのことを端的に示しています。

 おそらく、近い将来、我々の文明にもこの衝突の余波は必ず起き、様々な惨劇を目の当たりに見ることになるものと思われます。私は時折そのことを思ってすさまじい戦慄におそわれることがあります。文明の衝突に刺激され、私の中の無意識が目覚めているのかもしれません。いずれにしても、大変な事態が進行しているように私には思えるのです。


破壊されつつあるアフガニスタンの石仏
01年03月10日
                         長坂信一
 アフガニスタンでは、内戦の影響でイスラム原理主義勢力「タリバーン」の兵士により、世界的な文化遺産である2対の巨大石仏が破壊されているらしい。

  重要な価値のある遺産であれば、将来に残したいというのが人情であろう。

 私などは、仏教にはまったく疎く、実家が何宗かも記憶が定かではない。まあ、仏さまへの信心が足りないわけだ。この程度の私でも、アフガニスタンのニュースを聞くと、「石仏だけは何とか残せないものか」と急に信仰心がとりついた人間になったりする。

  ところで、素人の私には、素朴な疑問がわいてくる。釈迦は「石仏をつくり、それを大事に守れ」などと教えを説いたのだろうか。

 ご承知のとおり、釈迦は、生前、自らの教えを、文字としては一切残していない。膨大な経典は、後世の弟子達が、編纂したものだ。

  『法則』的にいうと、真理は文字では書けなかったのではないか。文字として著した瞬間に、真理は自らの外にある客観対象としてとらえられてしまう。客観化することによって、ひとからひとへ、次世代への伝達は容易になったかもしれない。

 しかし、真理は文字を読むことによって理解できるという安易な方法をつくってしまう。目に見える文字として読むことは、頭の中の理解にとどまってしまう。いわゆる学問になってしまうわけだ。

  学問はもちろん、重要である。ただし、世の中の役に立つという条件付きでだ。八百屋の店主は何十年もくりかえし、野菜を売っている。立派な職業だ。そして、世の中の役に立っているといえる。ひるがえって、学者はどうであろうか。ひとつの分野を何十年も研究しているのだから、著作の10冊、20冊あるのは、当然だろう。それは、八百屋の店主が野菜を売る行為と同じことだ。本当のその人の価値は、世の中の役に立ったのか否かにある。それは、誰かに指摘されるまでもなく、自分の胸に聞いてみればおのずとわかることだ。

 話をアフガニスタンの石仏にもどす。釈迦は石仏をつくりそれを保存するなどとは、説かなかったはずだ。あくまで、ひとを救済しようとしたはずだ。救済という意味が、経済的に救うのか、病を救うのか、極楽往生ということなのかは、私は知らない。しかし、すくなくとも、生きている人間を救おうとしたはずだ。

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