☆★ 先代親先生特集 ★☆

各界から5000人参列悲しみにあふれる聖地泉光園 

「葬儀後の祭事日程」

「故三宅歳雄教会長の略歴」

海外から寄せられた弔電 

弔辞 99/10/22更新

各界から寄せられた弔電の数々(順不同 敬称略)

主な会葬(弔問)者名(順不同 敬称略) 



各界から5000人参列
悲しみにあふれる聖地泉光園
金光教泉尾教会長 故三宅歳雄大人 教会葬


平成11年8月31日午後7時57分、宗教対話による世界平和活動に大きな足跡を残した金光教泉尾教会長の三宅歳雄師(満96歳7カ月)が老衰のため帰幽(逝去)した。本サイトでは、故三宅歳雄教会長の功績を偲び、帰幽から葬祭・告別式に至る出来事を特集で紹介する。




葬儀参拝者で満堂の会堂広前

◆親先生ご帰幽!

 三宅歳雄教会長は、4月25日の大祭の翌日から大阪市立大学病院で入院療養中であったが、「最期はご神前で」という本人の強い意志もあって、この日、同病院を退院して自宅へ戻っていた。8月31日午後7時57分、教会長の役宅である神徳館の神前の間で、三宅歳雄教会長は帰幽した。満96歳7カ月。泉尾教会に布教して72年余、恩師初代玉水教会長の下での教会修行生活から通算すると81年余の長きにわたる「人助けの御用一筋」の生活であった。

「親先生(三宅歳雄師の尊称)ご帰幽!」の報は、夜にもかかわらず、泉尾教会の信奉者はいうまでもなく、あっという間に、宗教界から世界中の関係者へ衝撃波として伝わっていった。読売・毎日・朝日・産経・日経の全国5紙はいうに及ばず、地方紙などにニュースを配信する通信社などからの取材も殺到したことからも、宗教界だけにとどまらない三宅歳雄師の業績の大きさが伺い知られた。

翌9月1日は、「親先生ご帰幽」のショックと悲しみに混乱する中、いつもどおり、泉尾教会の月例の朔日感謝祭が午後2時から会堂広前で粛々と奉仕される一方、教会長の遺体が安置されている神徳館は、故人を偲んで全国から届けられた枕花で埋め尽くされていった。この日から、遷霊祭(お通夜)の行われる3日まで、数多くの弔問客が訪れた。弔問に訪れた主な人物は、飯降政彦天理教表統領・津江孝夫今宮戎神社宮司・佐原慶治妙道会教団会長・庭野日鑛立正佼成会会長・池田瑩輝世界連邦日本宗教委員会委員長・磯村隆文大阪市長・左藤恵衆議院議員他、特に生前故人と縁の深かった人々である。


◆厳粛に営まれた終祭(遷霊式)
 
9月3日午後7時、故三宅歳雄金光教泉尾教会長の遺体が安置された会堂広前の神前で同師の終祭(遷霊式)が始まった。諡号(おくりな)は故三宅歳雄大人(もとのみやけとしおうし)。広前内に用意された椅子席は既に満席。遺族親族をはじめ、生前故人と親しかった各界からの特別参列者も席に着いた。なかには、三宅歳雄師の訃報を聞いて、はるばるニューヨークのWCRP本部から駆けつけたJ・マッコリー副事務総長の顔も見えた。

終祭とは、金光教式(神式)の通夜祭で、泉尾教会の親教会である金光教玉水教会の湯川正夫副教会長の祭主の下(湯川泰雄教会長は教会で病気療養中のため)に厳かに勤められた。湯川正夫副教会長は、故三宅歳雄師が82年前に弟子として人助けの御用生活の第一歩を歩みだした恩師湯川安太郎師の曾孫である。歳雄師は、晩年まで亡き師匠のから頂いたご恩を忘れずに、自分の孫のような年齢の正夫師に接する時にも、恩師に対する礼節で接していた。

終祭は、まず、神前での奏上祭。次いで、柩前での遷霊行事(故人の霊魂を遺体から抜き、霊璽に移し替える。この間、広前は真っ暗闇になる)。および、新霊床(合祀祭までの期間、霊璽を仮に奉安する行宮)での祭事。の3つがセットになっている祭事である。それぞれの神事が粛々と進められ、祭主の玉串奉奠、誄詞(るいし)奏上、喪主三宅龍雄師(三宅歳雄師の長男で金光教泉尾教会副教会長)の玉串奉奠、遺族親族の玉串奉奠、参列者の玉串奉奠で終了した。終祭(遷霊式)終了後の広前には、「親先生のご遺体のこの世での最後の晩を共に過ごしたい」という熱心な信者が、夜を徹して祈りを捧げている姿が印象的であった。終祭の参拝者が家路に辿り着くのを待っていたかのように、この夜は、数年に一度という集中豪雨であった。


◆各宗派の参列者が集い 盛大な葬儀

 九月四日、昨夜来の大雨ですっかり清められた「聖地泉光園(泉尾教会の境内地)」は、歴史的な朝を迎えた。故三宅歳雄大人の教会葬は、11時開式であるが、既に9:30頃には、各界からの参列者を乗せた車が次々と到着しだした。三宅歳雄教会長の諸宗教対話の先駆者としての働きに敬意を表して、教会葬には異例の、第255世天台座主渡邊惠進猊下、浄土真宗本願寺派前門主大谷光照猊下、立正佼成会開祖庭野日敬師、カトリック東京大司教白柳誠一枢機卿の4師が、友人代表として教会葬に名を連ねられた。




宗教界からも数多くの教団代表が参列した 

 葬儀の祭事は、昨晩と同じく湯川正夫師祭主の下8名の祭員によって仕えられた。特別会葬者席には、和宗総本山四天王寺管長森田禅朗猊下、辯天宗管長大森慈祥猊下、比叡山延暦寺執行清原惠光師らの仏教界。坂田安儀禊教管長、木積一仁神道石切教管長、黒住信彰黒住教学監、植村彰大本審査院長ら教派神道関係者。小串和夫熱田神宮宮司、建内光儀賀茂別雷(上賀茂)神社宮司、山本行隆椿大神社宮司ら神社神道関係者。長沼基之立正佼成会最高顧問をはじめ関係の深い天理教・妙道会教団、松緑神道大和山教団、円応教、真生会教団などの新宗教各教団からの代表、それに、日頃他宗教との交流がほとんどない真如苑、創価学会からも参列があった。私学関係では、同志社・清風学園・上宮学園・金蘭会・大谷学園・四天王寺・智辯学園等の各理事長らが顔を揃えた。金光教関係では、金光本家当主の金光棋正師、白神信幸大阪教会長、近藤武野難波教会長他、多数の教師教会長が参列した。もちろん、衆参両院の国会議員や各国大使館総領事館等の外交団の顔も多数見えた。特に、故人は日韓関係に力を入れていたせいか、韓国の金鍾必首相が来阪中にもかかわらず、大阪日韓親善協会の代表や日本曹渓宗総本山の管長、さらにははるばる韓国から圓佛教の弔問代表団などが参列した。

弔辞を奉読される宮本丈靖妙智會教団会長 故三宅歳雄大人の大きな遺影が祭壇正面に掲げられた広前での祭儀は荘厳な雰囲気で進行し、祭主による誄詞奏上は30分間にも及んだ。これも、故人の業績が広範囲にわたっているからであろう。喪主三宅龍雄師の玉串奉奠に続いて、金光教教主金光平輝師(代読阪井澄雄中近畿教務センター所長)ならびに妙智會教団会長宮本丈靖師および泉尾教会の信徒総代に川島晴見氏の3名が弔辞を述べた。なかでも、長年、WCRPで宗教協力の仕事を共にした宮本丈靖師は、歳雄師の遺影に向かい、その帰幽を「日本いや世界の宗教にとり、無念の極みです。これから私たちの世界平和への取り組みを見守って下さい…」と、感慨を込めて弔辞を述べ、また、喪主の三宅龍雄の挨拶が参会者の涙を誘った。



弔辞を奉読される宮本丈靖妙智會教団会長 

◆永久のお別れ

最後に、遺族親族、特別会葬者、一般参拝者の順に玉串を奉奠したが、あまりに大勢の参拝者のため、一度に30人ずつ玉串を奉奠したにもかかわらず、参拝者全員が玉串を上げ終わるのに、1時間半も時間を要した。最初のほうに玉串奉奠を行った信者は長時間待たねばならないにもかかわらず、玉串を終えて帰るものは一人もなかった。

長い玉串奉奠の後、葬祭が終了して、いよいよ永久の別れの告別式である。故三宅歳雄教会長の遺体が安置された御柩には、遺族親族等によって白菊が詰められ、歳雄師の血を受け継ぐ全ての男子(3人の息子と4人の孫)が金光教の教師教会長を勤めており、これらの直系の遺族によって担がれた御柩が、神前広前から会堂正面大階段、参道へと進んだ。葬儀開始時には、昨夜来の雨天であったにもかかわらず、不思議や出棺前には晴天となっており、大勢の信者が参道に土下座して見送る中を御柩は進み、信者からは自然と「一心御神願一心…」の連唱が巻き起こった。




「拝める宮(会堂)」正面からの出棺と信者のお見送り
正門で待ち受けた霊柩車に到着した御柩に、三宅龍雄師の先唱で最後のお礼のご祈念を上げた後、「親先生(故三宅歳雄師の尊称)ありがとうございます」と口々に叫ぶ信者たちを後に、霊柩車は聖地泉光園を跡にした。金光教泉尾教会と火葬場のある小林斎場とは10分もかからない距離にあるが、故三宅歳雄教会長の信仰生活の原点であり、昭和2年(1927)に泉尾の地に布教してからも、徒歩での日参を欠かさなかった玉水教会(西区土佐堀)広前へ最後のお礼参拝をするため、喪主の家族と共に霊柩車はわざわざ遠回りをして玉水教会へ参拝した。玉水教会の玄関では、病気療養中のため葬儀の祭主を勤めることができなかった湯川泰雄教会長が、車椅子で霊柩車の前までご参拝くださり、終のご祈念と玉串をご奉奠。遺族にお言葉を下さった。こうして、故三宅歳雄教会長の御柩を乗せた霊柩車は、親族たちの待つ小林斎場へと再び車輪を進めた。

■ 故三宅歳雄大人葬祭関連行事のお知らせ ■

十 日 祭  9月 8日(水) 14:00〜
二十日祭  9月19日(日) 14:00〜
三十日祭  9月24日(金) 14:00〜
四十日祭 10月 8日(金) 14:00〜
五十日祭・合祀祭 10月17日(日) 14:00〜




              





 

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