マイム・マイムの謎
            03年01月26日


レルネット主幹 三宅善信

▼「世界水フォーラム」の紹介

 3月16日から23日にかけて、京都府・滋賀県・大阪府を会場に「第3回世界水フォーラム」が開催される。人類はもとより、地球上のありとあらゆる生命にとって欠かすことにできない"水"の問題を話し合うための国際会議であり、3月22・23両日の「閣僚会議」へ向けて、各種のNGOや専門家が意見を出し合うだけでなく、各地域において市民参加型の各種関連イベント(期間中だけでなく、前後にかなり幅の広い関連イベントがある)を有する「今風の」会議(それゆえ「会議」と呼ばずに「フォーラム」と称している)である。

 私は、その関連イベントのひとつとして、2月5日に平安神宮会館で開催されるWCRP(世界宗教者平和会議)開発・環境委員会主催、環境省後援の地球環境問題シンポジウム『水と生命を考える』にパネリストとして出演することになった。私以外のパネリストとしては、今回の「水フォーラム」の仕掛け人のひとりであり、琵琶湖博物館の研究顧問でもある嘉田由紀子京都精華大学教授と、平安京の昔以来、「水の神様」として、京の都への水を供給し続けてきたとされる貴船神社の高田和大宮司である。高田師はまた、京都古事の森育成協議会の会長もされている。モデレータは、秩父神社宮司の薗田稔京都大学名誉教授である。薗田師は、律令時代から連綿と続く秩父国の国造(くにのみやつこ)家の直系の子孫であり、「社叢学会」の副理事長でもある。

 私以外の出演者の顔ぶれからして、「豊かな水資源をもたらせてきた神聖な森を大切にしなければならない」という方向に議論が進むことは十分予想できることであり、事実、そうであるのに違いない。強いて言えば、日頃から「セム系の一神教」と「アニミズム」という対立項で話をしている私が、今回のシンポジウムで採り上げられる問題を「世界の諸宗教の中で」というコンテキストで論じなければならないという役割が期待されているので、今回もその観点から、考察を進めることにする。

▼水のおもてに漂っていたエロヒム

 今回、"水"というテーマと、セム的な旧約聖書の世界を結びつけて考えるきっかけとなったのは、実は、新宗教団体のラエリアン・ムーブメントによる「クローン人間製造」騒動を受けて上梓した前作『神道はクローンによって誕生した』において、『創世記』の第1章第1節(「ベレシット バーラー エロヒム エット ハッシャマイーム ベエット ハアーレッツ(はじめに神は天と地とを創造された。In the beginning God created the heavens and the earth.)」で)を、久しぶりに原典のヘブル(ヘブライ)語で読んだからである。何事によらず、やはり、原典に触れてみるということは、その都度、思わぬ発見に出くわすことができるものである。

 二十数年ぶりにページをめくってみたヘブル語による『創世記』には、その続き(第1章第2節)として、「ヴェ(and)ハー(the)アーレツ(earth)ハーエター(was)トーフー・ヴァ・ボーフー(formless and empty) ヴェ(and)ホーシェク(darkness)アル・ペネー(over the surface of)テホーム(the deep)ヴェ(and)ルーアハ(spirit/ breath/ wind)エローヒーム(of God/ very strong)メラヘフェット(was hovering)アル・ペネー(over)ハ(ム)(the)・マイム(water)」とあった。1955年版の日本聖書協会の和訳によると、「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」とある。また、1968年版の中央公論社の「世界の名著『聖書』」によると、「地は荒涼混沌として闇が淵をおおい、暴風が水面を吹き荒れていた」とある。

 「ルーアハ エローヒーム」という言葉を、「神の霊」と訳すか、「激しい風」と訳すかでは、まるっきりイメージが変わってしまうが、この辺りが日本語で読んでいては決して気づかないユダヤ教やキリスト教の本質的な部分であろう。しかし、どちらの翻訳を採用したとしても共通している部分がある。それは、神がこの天地を創造した最初の時に、既に、「水」がこの世界を覆っていたというイメージ(「アル・ペネー(over)ハ(ム)(the)・マイム(water)」)である。そう言えば、古事記の『上巻(神代記)』においても、「賜天沼矛而。言依賜也。故二柱神立天浮橋而。指下其沼矛以畫者。鹽許袁呂許袁呂迩畫鳴而。引上時。自其矛末垂落之鹽。累積成嶋。是淤能碁呂嶋」」という表現で、イザナギとイザナミの夫婦神が、「天沼矛(アメノヌボコ)を天上から海に差し込んで、それを引き揚げた際にポトポト落ちた塩の滴から淤能碁呂嶋(オノゴロジマ=最初の陸地)ができた」と書いてある。つまり、「陸より海が先にあった」ということである。

▼地球は「水の惑星」か?

 もちろん、天地が創造される場面を見た人はいない(人間のほうが後から創造されたのだから)のであるが、この「創造神話」は、なかなか当を得ている。宇宙空間において、「水(H20)」そのものは、それほど珍しい物質ではない。彗星が「汚れた雪の塊」と言われるくらいである。火星の極部にも「氷がある」そうだ。しかしながら、(観測可能な天体においては)この地球だけが「水の惑星」と呼ばれ、同時に、豊かな生命系が成立している。それを可能にしたのは、言うまでもなく、この地球が、個体・液体・気体のいずれの状態の「水」も存在する希有な惑星だったからである。この三態が揃うというのは、案外、難しい条件である。土星のように惑星の表面温度が0℃以下だったら、「個体(氷)としての水」しか存在し得ない。また、金星のように表面温度が100℃以上だったら、「気体(水蒸気)としての水」しか存在し得ない。宇宙空間に存在する数億度の温度階調(註:下は「絶対零度」と呼ばれる-273℃から、上は恒星の中心核の数億℃までの「幅」があり得る)の中で、わずかに0℃〜100℃の間にだけ「液体としての水」が存在し得るのである。そして、その「液体としての水」の中で、生命は発生し、進化してきた。しかも、「熱しにくく冷めにくい」性質を持つ「液体としての水」のおかげで、温度の急激な変化も抑制されてきたのである。

 ただし、「液体としての水」だけでは、地球上のいろんな物質の循環はうまく行かない。たとえば、もし、地表の温度が5℃くらいなら、水は凍らないし、蒸発もしないので、水はほとんど動かなくなってしまう。しかし、この地球においては、赤道付近を中心に、水温25〜30℃くらいの海水面が広範囲に存在し、それらの水域から盛んに蒸発した水(水蒸気)が地球規模で大気中を循環し、熱帯雨林地方だけでなく、極北の地にも雨(雪)を降らし、高い山岳地にも雨(雪)を降らしてくれるおかげで、永久に水の循環が行われている。もし、水蒸気という形での海水の蒸発がなければ、重力に従って、水は一度きり「高いところから低いところ(海)へ流れ落ち」て、それでお仕舞いであり、すべての陸地は永遠に砂漠化してしまう。赤道付近の高温海水域は、地球上の全生物にとって、まさに「エル・ニーニョ(the baby=救世主イエスのこと)」である。

 このように、実に微妙なバランスの上に、この惑星では、水の循環が成り立ち、そして、その結果として、生命系が成立しているのである。しかし、地表にある液体としての水の99%は海水で、われわれが使うことのできる淡水は1%のみであり、ここに、貴重な水資源を巡る争いが生じてくるのである。1950年と2000年を比較すれば、全世界の水利用は5倍に拡大しているのである。いったい、この水不足を如何にして補うのか? もちろん、「淡水であればなんでも良い」というふうに条件を緩和すると、地下水や極部の氷河などが利用可能であるが、内水面(河川・湖沼等)に自然に存在する水と比べて、利用するのにコストがかかることは否めない。

▼水を征する者は世界を征する

 古代の四大文明が皆、大河の畔に成立したことからも、水は人類の社会的生活においても、重要な要素であることは言うまでもない(註:都市国家が人類の文明をもたらせたことの査証については、『A.I. & Metropolis:都市は人類に何をもたらしたか』や『都市と伝染病と宗教の三角関係』で既に述べたとおりである)。潅漑農業の実施による大規模な人口集積地(都市国家)を養うためには、大河の流れる乾燥地帯であるという条件が必要であったが、同時にそれは、「洪水」という厄介な問題にも直面させられることになった。古代中国に伝わる聖天子の代表格の堯・舜・禹は、いずれも「治水」の能力を評価されて帝位に就いたのである。(註:現在の中国でも「南水北調」と言って、国内の水資源の分配が共産党政府の大きな課題のひとつである)4000年の歳月を経て、びくともせずに屹立し、今なお、見上げる者に感動を与えるピラミッドを造れるほど高度な技術を誇った古代エジプト人たちが、「車」という道具を知らなかった(必要としなかった)のは、ひとえにナイル川の水運を利用できたからであり、もちろん、定期的な洪水を予測するために天体観測や暦という技術も開発された。その意味でも、エジプトはまさに「ナイルの賜」である。

 それ以後、人類にとって、水の使用量は増えることはあっても、減ることはなかった。飲料水を帝都にまで運ぶために何十キロも続くローマの水道橋や、常に噴水が滾々(こんこん)と湧き出ていたオアシス都市サマルカンド、わが飛鳥時代の藤原京でも池を配した庭園や水路が盛んに造られた。長年、何のために造られたのか判らなかった「酒船石」は、最近、噴水への配管設備だったことが判明した。しかし、中世までの王侯貴族による贅沢な遊びのための水利用は、使用量という意味ではたかが知れていた。やはり、なんといっても、水利用が桁違いに増えたのは産業革命以後のことである。電気や石油で駆動する動力ポンプが発明され、水は重力に逆らって「低きから高きへ」輸送できるようにもなった。特に、20世紀に入ってからの需要の拡大は著しく、工業用水はいうまででもなく、スプリンクラーを用いた農業が定着することによって、本来、作物が生育しない乾燥地帯にまで水が運ばれることになった(註:地下水の汲み上げ過ぎによる地表の「塩害」という深刻な問題もある)。水の重要性はますます増大したのである。

 かくして、古代都市国家の成立以来、21世紀の現代においても「水を征する者は世界を征する」ということに原則は変わらなかった。降水量の多い日本で暮らすわれわれにとって、水資源確保の問題はそれほど深刻な話ではない(註:夏期の水不足で、毎年「節水」が叫ばれているが、所詮は「飲める水を排泄物の流し水に使っている国民」の世迷い言である)が、中近東の乾燥地帯ではことは深刻である。水資源を確保した者が、人々の生殺与奪の権を握ることになるのである。石油ももちろん重要な資源には違いないが、人は石油がなくても生きてゆけるが、水がなければ3日と生きてゆけない。中東における「土地争い」は、「水(水利権)争い」でもあるのである。尽きることのない「暴力の応酬」が繰り返されているパレスチナ問題も、日本ではあまり問題にされないが、本質的には「水争い」でもある。

▼イスラエル民謡『マイム・マイム♪』

 本来、「パレスチナ国家」の"領土"であるヨルダン川西岸地区に、勝手に"入植"しているユダヤ人(註:入植者のほとんどは、イスラエル建国後、旧ソ連邦などから遅れてやって来た"New Comer"たちである。当然、彼らのための余地はイスラエル国内にはないので、イスラエルが周辺諸国から武力でぶんどったパレスチナ人たちの土地に"入植"している)たちは、人口比で言えば、パレスチナ人とユダヤ人入植者の比は、15:1である。しかしながら、水の利用量という点から見れば、逆に1:4で、ユダヤ人入植者のほうが圧倒的に多い。人口1人当たりに換算すると、実にユダヤ人はパレスチナ人の60倍の水を使っている。

ヨルダン川西岸地区においた水配分争い
人口比
水配分
パレスチナ人
15
20%
ユダヤ入植者
1
80%

 私は、1992年に西岸のパレスチナ人難民キャンプを訪れたことがあるが、パレスチナ側では、日々の飲み水すら、女子供が遠い井戸から瓶で汲んでくるのに、フェンスの向こう側に見えるユダヤ人入植地では、畑の作物にすらスプリンクラーで水を撒いている始末である。しかも、パレスチナ人たちは何百年も前からこの地に住んでいたのに、昨日今日来た入植者のほうが、圧倒的に「良い暮らし」をしているのである。この理不尽な状況を子供の時から見せつけられて育った青年たちが、爆弾抱えて自爆テロをしようと思っても決して不思議ではない。もちろん、それを放置している国際社会の無責任さの元凶が、何事も「親イスラエル」のアメリカにあるのであるから、アラブ人の連帯意識を持った原理主義者の連中が、やけになって対米テロに走るのも無理はない。

 読者の皆さんの中で、フォークダンスの『マイム・マイム♪』を知らない人はいないであろう。この曲は、『オクラホマ・ミキサー♪』と並んで、小・中学校の体育の時間にフォークダンス曲として必ず踊る曲である。では、この曲が、実はイスラエル民謡だと知っている人は何割いるだろうか? レコードのジャケット(われわれの頃はCDなどなかった)に小さく「イスラエル民謡」と書かれてあるので、一応、イスラエル民謡だということぐらいは知っている人は何割かはいるであろう。しかし、歌詞の意味をご存じの方となるとほとんどいないであろう。特に、最後の部分の、輪になって隣の人と手を繋いで中心部へ集まっていく(最後は、真ん中へ脚を蹴り出す)時の不思議な歌詞の意味である。「……マイム・マイム・マイム・マイム・マイム・ベッサンソン♪」という部分である。

▼イスラエルの世界制覇を意図した歌

 しかし、勘の良い『主幹の主観』の愛読者の方なら、私が最初のほうで書いた『創世記』の第1章第2節を思い起こされるであろう。私は、そこで、「水」がこの世界を覆っていたというイメージ(「アル・ペネー(over)ハ(ム)(the)・マイム(water)」)である。と書いたはずである。そう「マイム」とは、ヘブル語で「水」のことだったのである。ということは、「マイム・マイム・マイム・マイム・マイム♪」とは、「水・水・水・水・水♪」という意味である。では、最後の「ベッサンソン♪」の意味が気になるのではないか? 結論から言おう。「ベッサンソン(with joy)」とは「喜びをもって」という意味である。であるから、歌の意味は「水・水・水・水・水(が出て)嬉しいな♪」である。パレスチナの地は乾燥地帯なので、日本のようにあちこちに河川や湖沼がある訳ではない。湖沼と言っても、日差しが強く降水量が少ないので、「死海」のような塩湖がほとんどである。したがって、飲み水は専ら井戸かオアシスに頼らざるを得ない。もちろん、この歌詞の意味する「水」は、井戸水である。

 旧約聖書には、多くの預言者が登場するが、その過激なメッセージ性という点では、イザヤの右に出るものはいないであろう。そのイザヤが著したという『イザヤ書』の第12章第3節に以下のような文言がある。「ウッシャアヴテム(you will draw)マイム(water)ベッサソン(with joy)ミマイネイ(from the wells)ハイェシュア(of salvation)」という件(くだり)である。1955年版の日本聖書協会の和訳によると、「あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ」とあるから、民謡『マイム・マイム♪』は、明らかにこの部分から取られた歌である。『イザヤ書』のこの前後の部分は、かなり過激な内容である。例えば、第11章の第11〜12節に、「その日、主は再び手を伸べて、その民(イスラエル)の残れる者をアッスリア、エジプト、パテロス、エチオピア、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる。主は国々のために旗をあげて、イスラエルの追いやられた者を集め、ユダの散らされた者を地の四方から集められる」とある。同じく第14節には、「しかし彼らは西の方ペリシテびと(パレスチナ人)の肩に襲いかかり、相共に東の民をかすめ…」と、現在のイスラエルの所業を正当化するような件である。そして、第12章に入り、第2節として、「見よ、神はわが救である。わたしは信頼して恐れることはない。主なる神はわが力、わが歌であり、わが救となられたからである」と来て、この民謡に盛られた「あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ」の部分へ繋がるのである。

 当然、過去も現在も、ほとんどのユダヤ人たちは、旧約(「律法」ともいう)の主要な文言は丸暗記しているから、みんなで輪になってこの民謡を歌って踊る時には、同時に、『イザヤ書』のこの部分の文言が頭の中をグルグルと駆けめぐっているであろう。「神によって約束されたこの土地にあるものは、地下水に至るまで、当然われわれのものである」と…。そして、それを守るためには、自分たちはなんでもするぞ! と…。そう言えば、運動会や各種競技会(たしか『NHK紅白歌合戦』でも)の表彰式の時に必ずかかる「チャーンチャーチャチャーンチャン、チャチャチャチャチャンチャンチャーン♪」というヘンデル作曲の『勝利を称える歌(原題は、『ユダス・マカベウス』)』も、紀元前166年にペルシャ帝国支配下のイスラエルで、ユダヤ教の礼拝と活動を禁止されていたことに対して、「マカベアの反乱」が勃発し、闘いに勝利したユダヤ人の王によってハスモ二ア王朝が立てられたことをモチーフにして作られた曲である。ここにも、ユダヤ人の巧妙な世界制覇の意図がくみ取れないこともない。

 わが日本人は、"国技"大相撲の表彰式の際ですら、ナイーブ(バカみたい)にこの曲を使っている。そう言えば、本日、大相撲初場所が終了したが、"平成の大横綱"貴乃花の引退と、モンゴル出身力士の朝青龍の優勝と横綱昇進の影であまり目立たなかったが、序の口から幕の内まで6階級ある内の5階級が外国人力士によってさらわれたのである。スポイルされている日本人なら致し方ないのかもしれないが…。これでは、"国技"の名が泣く。相撲が取り組みの最中に中断することを「水入り」と言うが、日本人は、"水"に関する言葉ばかりたくさんあっても(例えば、「水に流す」とか「水くさい」等)、本当は水を大切にしていないのではないだろうか? そう言えば、預言者イザヤと同じ名前の作家イザヤ・ベンダサン氏による『日本人とユダヤ人』の書き出しに、「日本人は、水と安全はタダと思って暮らしてきました」というあまりにも有名な文句があったが、私は、かつて『水と安全はただ:池田小学校事件に思う』において、「ペットボトル入りの水(を買うという新しい風習)をなくさない限りこの国に将来はない」いう主旨のことを述べた。「日本人と水」について、今一度、考え直してみる良い機会だと思う。


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