A.I. & Metropolis:都市は人類に何をもたらしたか
01年7月19日


レルネット主幹 三宅善信

▼動物行動学者ローレンツ博士の「刷り込み」実験 

 話題の映画『A.I.』を観た。三十数年前、映画史上不朽の名作と言われた『2001年宇宙の旅』でメガホンを執ったスタンリー・キューブリックが長年暖めてきた構想を"天才"スティーブン・スピルバーグが映画化(監督)した超大作という触れ込みであったので、たいそう期待をもって映画館へ足を運んだ。確かに平日の昼間だというのに、映画館は老若男女で満員だった。私も、どんなスピルバーグ・マジックを見せてくれるのかと、期待に胸を膨らませて席についた。しかし、映画を見終わった後には、上映時間146分という長時間の割には、何か物足りなさを感じさせる映画であった。映画は大きく3つの部分に分けられる。


デイビッドのシルエットで描かれた象徴的なA.I.のロゴ

 時代設定は、高度に機械文明の発展した未来社会。子供を失くした(実際には「不治の病」で冷凍保存した)夫婦が、"代用品"としての超高性能ロボット(原題の『A.I.』は「Artificial Intelligence=人工知能」の意)デイビッドを入手し、"愛"をインプットされた「完璧な息子」デイビッドに次第に感情移入するようになるが、奇跡的に「死んだはず」の実子が生き返り、実子と養子(デイビッド)との軋轢から、仕方なくデイビッドを森へ捨ててしまう。ところまでが第1部。次に、労働力としてだけでなく、エンターテイメントから性欲処理に至るまで、社会のあらゆる層において広範囲にロボットが活躍しているのであるが、何らかの理由によって棄てられたロボットたちが、人間の優位性を主張する集団によって虐待され、見せ物として殺され(壊され)てゆく趣味の悪いシーンの連続と、その現状からなんとかして逃げ延びようとするデイビッドとSEXロボットのジゴロ・ジョー。そして、第3部が、『ピノキオ』よろしく、「本物の人間」になるために世界の果てまで冒険し、最後には、2000年の時を超えて旅をして、思いがけない方法で念願を果たすデイビッド。というのがストーリーの骨子だ。

 しかし、第1部は、PTSD(私流に言わせていただけば、単なる「辛抱力のない人」の状態)の母親と、せっかく九死に一生を得たのに、なんら人格的に進歩の跡が見られない意地悪息子に振り回される可哀想なデイビッド……。因みに、ナイーブなデイビッドを演じるハーレイ君は、背格好といい雰囲気といい、愚息そっくりである。キーワードは、愛の「imprinting(刷り込み)」これじゃ、まるでハイイロガン(灰色雁)の雛の「刷り込み(孵化して最初に見た動くものを"親"と認識する)」実験で有名な動物行動学者のコンラート・ロレンツ博士の話だ。そういえば、昨年末のディズニー映画『ダイナソー』もこのパターンだった。しかし、動物全体からみると、このような明らかな刷り込み現象が見られるのはある種の鳥類(離巣性=孵化後直ぐに歩いて自分で餌を捕るアヒルなど)であり、未熟な状態で産まれてくる哺乳類全般ではこのような劇的な現象は見られない。その種が高等(価値の問題ではないシステムが複雑化するという意)になればなるほど、機械的・本能的なプログラムは減じる(未成熟な状態で産まれる)傾向があるのは、当然の現象である。映像として印象的であったのは、デイビッドが初めてこの夫婦の家を訪れた時の、「逆光」の中で彼のシルエットだけが浮かび上がる場面である。もちろん、『未知との遭遇』のラストで、巨大宇宙船のハッチが開き、中からグレイマン(お馴染みの手足が華奢で目の大きな宇宙人)の姿が、逆光線の中で、シルエットだけで浮かび上がる登場シーンをプロットにしているのは言うまでもない。


▼E.T.→グライディエーター→ピノキオ→2001年宇宙の旅

 第2部は、「ロボット狩り」の場面の連続である。あの『E.T.』の名場面、警察に追われたエリオット少年たちが森の中を自転車で逃げ回った挙げ句、間一髪のところで、E.T.の超能力で自転車ごと空中へ舞い上がり巨大な満月の前を横切る印象深いシーンであるが、今回はその満月が、実は、悪者を乗せた気球(ほとんど『ポケモン』の敵役ロケット団)そのものになっていて、観客の期待をぶち壊す効果を挙げている。「ロボット狩り」で捕まったロボットたちは、哀れ『グラディエーター』よろしく、あたかも古代ローマ帝国において奴隷の人命を弄んだごときショーの餌食とされる。ロボットの進出によって失業したような人々の敵意剥き出しの中で、次々と無抵抗なロボットたちが殺され(壊され)でゆく。ロボットたちは、お互い同士で「痛みを感じる回路のスイッチを切ってくれ」と頼み合いするが、決して、人間たちの「狂気」からは逃げようとはせずに、従順に殺されてゆく。われらがデイビッドも囚われるが、デイビッドがあまりにも人間に似すぎているので、観客が躊躇する間に、ジゴロ・ジョーと共に間一髪で脱出する。人を疑うということを知らない純粋無垢なデイビッドと、これまで数知れずの人間の女性を手玉に取ってきたジゴロ・ジョー。この奇妙な組み合わせが、相互補完的に絶妙に機能して、数々の困難を克服して行き、最後には、デイビッドの願いである「本物の人」になることができると言われている「世界の果て」Manhattanに行くことができる。この時代の地球は、温暖化の影響で海面が上昇し、ニューヨークの摩天楼群も半分くらいの高さまで水没しており、放棄された街という設定になっている。


無垢なデイビッドとやり手のジゴロ・ジョー

 そして、問題の第3部に突入する。かつて木偶人形の願いを聞いてピノキオを本物の少年にした「青い女神」を探して、はるばるManhattanにまでやって来たデイビッドが見た現実は、自分と同じ姿形をした大量のロボットだった。失意に満ちたデイビッドは、超高層ビルから投身し海中深く沈んでゆくが、偶然、そこでかつての遊園地にあった「青い女神」像を見つける。そして、いのち(エネルギー)の続く限り、女神に祈り続ける。「Please make me a real boy.」と…。物語は、そこから2000年の歳月が流れて、意外な展開を遂げるが、最後まで書いてしまうと、映画をまだ観ていない人に申し訳ないので、この辺で止めるが、ヒントは、ある意味で『2001年宇宙の旅』の結末に似た要素がなきにしもあらずというところだ。そういえば、スタンリー・キューブリックも、スティーブン・スピルバーグもユダヤ人であるから、意識するとしないとに関わらず、なんらかの宗教的・文化的背景があるのかもしれない。もちろん、それを見つけ出すことが、本コラムの目的でもある。


▼ノスタルジックな"未来"

 さて、ここで、もうひとつの作品『メトロポリス(Metropolis)』を紹介しよう。『メトロポリス』は、言わずもがな日本が生んだ世界の巨匠、手塚治虫原作作品の映画化である。テレビで『鉄腕アトム』のアニメを視て育ったわれわれ"科学の子"世代にとっては、手塚治虫はまさに神様的存在である。手塚治虫の作品群については、長い年月出版され続けたし、また、ほとんどアニメ化(映画化・テレビ化)されたので、あまりにも有名なのであらためて説明するまでもないが、戦後間もない時期に発表されたいくつかの作品については、これまでアニメ化はされる機会がなかった。

 手塚は、日本全土が焦土と化した終戦の翌年、弱冠二十歳で漫画界にデビューする。出版のための紙の入手すら困難であり、「漫画」という非生産的分野の存在そのものが社会から疎んぜられていた時代のことである。しかし、次の年の1947年、冒険漫画『新宝島』のヒットで一躍社会の注目を集めることになった手塚は、48年に、『前世紀(Lost World)』、続いて49年に『大都会(Metropolis)』、そして51年には『来るべき世界(Next World)』と立て続けに、いわゆる「手塚治虫の初期三部作」と言われる作品群を世に発表した。今回映画化された『メトロポリス』は、なんと終戦後わずか4年しか経っていない1949年の作品である。今から半世紀以上も前のことである。手塚治虫の想像力、着想力には、本当に驚かされる。まだ、敗戦後の混乱が続き、日々の糧にも不自由していた時代に、50年先の世界(20世紀末)を予測し、現代の超高層ビル群やスーパーテクノロジーを漫画の中に描き込んでいった。この『前世紀』、『大都会』、『来るべき世界』という、初期三部作に続いて、1952年には『鉄腕アトム』を発表、翌53年に『リボンの騎士』、54年『火の鳥』…と、その後に続く手塚ワールドの幕開けとなった。この作品では、後の手塚シリーズの常連となる正義感の強いヒゲオヤジや悪役三人組みとも言えるアセチレン・ランプ、ハム・エッグ、スカンクといったキャラクターが、早くも登場している。

 そのような背景の中、数ある手塚治虫作品の中で、『鉄腕アトム』以降の諸作品はほとんどテレビアニメ化されていったが、それ以前の作品はこれまで手付かずの状態であったので、『メトロポリス』の映画化が進行していることを昨年知った私は、今回の封切りを心待ちにしていた。今回の『メトロポリス』の映画化にあたっては、手塚治虫が主宰する「虫プロダクション」の主要スタッフとしてテレビ版アニメ『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』の演出を手がけたりんたろうが監督を務め、脚本には1988年、映画『AKIRA』を発表し、全世界に衝撃を与えた大友克洋が脚本を務めるという、ゴールデンコンビによって映画化が実現した。もちろん、『メトロポリス』を映像化する際に、登場人物そのものに勝るとも劣らぬくらい重要なファクターである未来的な大都市は、現在のCG技術なしには描くことは不可能であっただろう。さらに、未来のことを描いているにも関わらず、「半世紀前に考えられた未来」ということで、登場人物のファッションや自動車のアール・デコなデザインなど、逆に何か懐かしい、ノスタルジックな感じのする未来ということで描かれているところがいい。映画の挿入音楽はすべてディキシーランドジャズの大物レイ・チャールズの音楽が使われている。


▼ヒゲオヤジ登場

 『A.I.』同様、ここで『メトロポリス』のあらすじについて3つの部分に分けて梗概する。まず、最初は目も眩むようなメトロポリスの栄華の祝祭シーンから始まる。メトロポリスの物質的繁栄を象徴する林立する超高層ビル郡の中でも一際目を引くのが、この度完成した"ジグラット"である。冒頭の場面で描かれているのは、このジグラットの落成式典だった。この天まで届かんというような高さだけでなく、アールデコ様式の威容を誇るジグラットを巡る攻防がこの物語のモチーフとなる。このジグラットを完成させたのは、メトロポリス随一の実力者レッド公である。レッド公は一民間人であるにも関わらず、このメトロポリスにおいてはブーン大統領をも陵駕する実力者で市民の熱狂的支援を受けている。

 このジグラットの頂上で、レッド公が風雲急を告げる天に向かって己の業績の偉大さを称えるシーンから映画は始まる。まるで"バベルの塔"のニムロド王だ。事実、ジグラットは、祝祭の打ち上げ花火ですら眼下に見下ろす、目も眩むような"超"超高層ビルなのである。その繁栄を誇る街を挙げての晴れ晴れしい祝祭の場面に、場違いな日本人とおぼしき二人組みが紛れんで来る。この物語の主人公の一人である少年ケンイチと、彼のおじさんで私立探偵をしている"ヒゲオヤジ"伴俊作である。ヒゲオヤジはマッドサイエンティスト(狂気の天才科学者)の国際指名手配犯ロートン博士を追って、このメトロポリスに来たというのだ。ロートン博士というのは、臓器売買や人工生命に関わっているという暗い噂の立っている天才科学者である。メトロポリスの警視庁を訪れたヒゲオヤジは、現地の警察責任者ノタアリン総監と面会するが、事なかれ主義の総監は捜査には非協力的な態度である。


目も眩むようなジグラットから見下ろした景色

 この物質的な繁栄を誇るメトロポリスの栄華に、最初は目を奪われていたケンイチとヒゲオヤジであるが、ノタアリン総監から貸し与えられたロボット刑事ペロと共にメトロポリスを捜査しているうちに、メトロポリスの繁栄の陰にあるこの街の大きな問題点に気付く。実は、繁栄を謳歌しているのは「Zone-1」と呼ばれる地上世界だけのことであって、この他に、この世界を支える「Zone-2」と呼ばれる地下都市がある。そこは、ロボットに職を奪われた人々や、繁栄から取り残されて反政府的な感情を抱いている人々、広範囲な労働力を提供しているロボットたちの住む、薄汚れてはいるが活気に満ちた世界がある。Zone-1とZone-2の間の往来は、行政側のゼネラル・コントロールセンターによって厳しく管理されている。さらには、そのZone-2の下に、「Zone-3」という下水処理やエネルギー供給施設のある区域まであるらしいことが判明するが、そこには、もはや人の姿は見えない。


▼マルドゥク党VSティマ

 ロートン博士の消息を追ってZone-1からZone-2の世界に迷い込んだケンイチたちは、そこで、メトロポリスの隠された実態を見てしまう。影の実力者レッド公の養子で、秘密結社マルドゥク党(ナチのゲシュタポのイメージ)を組織するロックというサングラスの青年に出遭うのである。マルドゥク党とは、ロボットが社会において大きな位置を占めることを快しとしない人間たちの秘密結社であり、その隊長である青年ロックはほとんど治外法権的な暴力行為を行なっているが、治安当局も見て見ぬふりをしている。なぜなら、ロックの父親は実力者レッド公であるからである。そんなある日、薄汚れたZone-2にあるマッドサイエンティストのロートン博士の研究所をレッド公が密かに訪れる。レッド公はロートン博士に何やら大変な「究極のロボット」の製作を依頼しているようである。そのロボットとは、かつてレッド公が失った一人娘ティマそっくりに造られた、最新鋭の人造生命とも呼べる代物であった。


炎の中から女神ティマ誕生

 日本から指名手配犯のロートン博士を追ってきたヒゲオヤジたちと、ロボットがこれ以上世界に増えることを憎むマルドゥク党のロックたちが、ほとんど同時にロートン博士の研究所に辿り着き、ロック一味の手によって完成間近のロボットごと研究所が破壊され、火災に陥り、ロートン博士は秘密を記した手帳をヒゲオヤジに託して死ぬ。ただ、その混乱の中で、少年ケンイチとまさに始動しようとしたティマ(少女型の完全なロボット。本人は自分がロボットであるという自覚すらない)が、危機一髪逃げ出して、さらに下層にあるZone-3の下水処理ゾーンに逃げ込む。下水処理ゾーンは無人の地域である。大切なティマを失ったと思い込んだレッド公は、レッド公のため(世界を支配する"超人の椅子"に座るべき至高の人間は、断じてロボットのティマなどではなく、レッド公自身であるべきだと思いこんでいる)を思ってティマを破壊したロック勘当してしまう。一方、ケンイチと生き別れになったヒゲオヤジは、ロボット刑事ペロと共に地下世界でケンイチたちの一行の所在を探る。Zone-3に落ちたケンイチとティマは、世間を知らないという意味でのナイーブさを持った2人なのであるが、フィフィと呼ばれるZone-3を支える最も単純なロボット(掃除汚水処理ロボット)に助けられて、マルドゥク党の追っ手から逃れて地上世界へ上がろうとする。


▼「超人の椅子」へ座るのは誰か

 ロボットだけの世界であるZone-3の上はZone-2であり、Zone-2には"落ちこぼれ"の人間たちが、メトロポリスの社会秩序を転覆しようとクーデターを企てている。ティマを捜索にきたロックたちのZone-2の人々を人とは思わない行動が実際にクーデターを誘発し、また、メトロポリスの支配者同士の権力闘争がこれに密接に絡んでいて、内心レッド公を疎ましく思っていたブーン大統領は先手を打って、暴動のどさくさに紛れて合法的にレッド公を亡き者にしようとするが、レッド公の方が一枚上手で、ブーン大統領はスカンク国務長官の裏切りにもあって失脚する。実は、レッド公は、このメトロポリスの支配を拠点に、世界征服を狙っていたのである。このメトロポリス中央に聳え立つジグラットの屋上には、世界中のロボットを狂わしてしまうというオモテニウムなる元素(ウラニウムの逆)を発射する装置が搭載されており、そこから太陽の黒点をめがけてオモテニウムが発生されると、太陽が異常活動を起こし、そこから放出される電磁波(太陽風)の影響で、ある日突然、世界中のロボットが狂ってしまう。ロボットの突然の異常行動に対し、人々は世界中で「ロボットは危険な存在だから、壊してしまえ!」と立ちあがり、多くのロボットが壊されてしまう。


ティマは世界を救う天使か?

 このロボットの同時多発的誤作動と、政界での権力争い、Zone-2の住人たちの蜂起とが一緒になって、メトロポリスは大混乱に陥り、たちまちレッド公の全体主義的支配が確立されてしまう。捉えられたケンイチを助けるために超能力の片鱗を見せたティマは、かえってそのことによってレッド公に逆探知されて捕まえてしまう。長年の念願が叶ったレッド公は、ティマをジグラット最上階にある"超人の間"へと連れて行かれる。そこでケンイチとヒゲオヤジとロックが見たものは…。ティマは人間の形をしたロボットであり、ジグラット最上階の巨大なコンピュータシステムの端末と合体することにより、世界中のあらゆるコンピュータを支配するロボットになるというのである。地下世界でティマと一緒にウロウロと逃げ回っていた少年ケンイチは、ティマの純真無垢なところをまるで天使のような存在だと思い、また、ティマの天真爛漫さに多くの者が勇気づけられるが、結局ティマはレッド公の陰謀に捕らえられて、世界を支配する装置の一部と化してしまう。その時、ティマにレッド公も予想しえなかった変化が起こる…。ここから先は映画をまだ見ていない人のためにあえて言わないでおこう。


▼人間が人間であるための条件

 『A.I.』と『メトロポリス』に共通する点は、主人公のロボットがおよそロボットらしくないロボットに造られているという点である。神はアダムを創造したときに、「神の姿に似せて(Imago Dei = image of God)創った」と旧約聖書に書かれているが、まさしくこういう雰囲気だったのだと思う。アダムがそうであったように、本人たち(デイビッドとティマ)は、「自らが被造物(ロボット)である」という自覚すらないほどの完璧な"作品"なのである。しかし、人はデイビッドとティマの正体を知るや、そこに自分たちのなし得なかった欲望を投影しようとする。また、その2つのロボット(人工知能)とも非常に優れた出来で、これまでのロボットの概念を覆す画期的なロボットであるがゆえに、人々の争いの種になってしまう。非常に優れたロボットという被造物を自らの手で創り出すことによって、人はある意味で、自らが"神"の位置に到達したと錯覚するのである。

 ロボットと人間との共生、あるいは対立ということを、両方の映画は描いているわけであるが、それでは、いったい人間とロボットの違いはどこにあるのであろうか?  有機物と無機物という材料の違いであるのか? あるいは、自由意志とプログラムという行動の違いであるのか? いや、そんなことは関係ない。人間だって、ペースメーカーを付けている人もいれば、自律神経のように予め決められたプログラムで行動している部分も多々ある。私が思うところに、人間が人間であるということの必須条件は、「自らの存在の意味」や「世界(対象化された外界)の意味」を問うということではないか。人間の細胞を構成する材料から言えば、人間も鳥も魚も、アメーバさえも、ほとんど同じである。

 以前にも記したことがあるが、われわれが子供の頃に学校で習った、人間であるヒトが、他の動物と違う3つの条件とは、1) 言語を話す。2) 直立して二足で歩行する。3) 道具を使う。の3つであったが、今となっては、この3つはいずれも眉唾ものである。言葉を話すという点で言えば、イルカや鯨だってお互いに十分意志疎通をしているし、直立二足歩行という点で言えは、ペンギンだって立派なものだ。道具を使うということでも、チンパンジーもあるいはカラスなども、道具を使うことには使う。人間が人間であるということの本当の条件とは、自らの存在の意味を問い、世界というものを客観的に認識し、そしてそのことから生じる帰結としての宗教的情操というものを持っているということが、人間が人間であるということの現地点では譲れない条件づけである。


▼母なる都市

 それでは、この2つの映画に共通するデイビッドという少年(ロボット)、あるいはティマという少女(ロボット)は、いったいロボットであろうか人間であろうか? もちろん、材料からいえばどちらも紛れもない人工構造物である。しかし、そんなことを言えば、入れ歯だって義足だって、すべて人工構造物である。ところが、映画の中で、デイビッドもティマも、自分自身の存在の意味を問うという行為が行なわれている以上、これを単にロボットとして認識するわけにはいかない。なぜなら、人間と他の生物を分ける分岐点というのは「自らの存在の意味を問い、世界の存在の意味を問う」ということ一点にかかっているからである。逆に、姿形(肉体)は人間でも、その人が自らの存在の意味や、世界というものについて考えないのでがあるとしたら、それは人間であると言い切れない。


とてもロボットには見えないティマ

 シンボリックな表現であるが『A.I.』のシーンで、人間たちがロボットを破壊する場面で、その古代ローマの競技場のような建物の入り口には「Flesh festival」と書かれていた。フレッシュは文字どおり肉。「肉の祭典」という意味であるが、彼らは、人間とロボットの違いを、肉――マテリアルとして物質としての肉――でできているか、そうでないかということで、人であるかそうでないかを区別しているのであるが、おそらくスピルバーグも、手塚も、それ(デイビッドやティマ)が、自らの存在の意味を問うかどうかという点で、ロボットであるか人間であるかという点を区別しているのである。

 そして、どちらの映画にも共通して出てくるのが、目も眩むような摩天楼。いわばメトロポリスという言葉で表される超巨大都市である。英語のmetropolisは、ニューヨークや東京などの大都市を指すが、もともとメトロポリスの語源は、ギリシャ語のメトロ(metro)は、英語のmotherと同じで「母親」という意味である。ポリス(polis)は都市。つまり、「母なる都市」という意味なのである。


▼現世人類の世界への拡散速度

 東アフリカの荒野に、人類の祖先であるアウストラロピテクス(猿人)が現れて450万年前と言われる。その後、さまざまな化石人類が出現するが、われわれヒトと同じホモ(homo)属が出現するのが250万年前のことと言われる。これらの人類の祖先たち(の化石)は皆、アフリカからしか発見されていない。そのことは、ヒトに最も近縁の種であるチンパンジーやゴリラがアフリカに棲んでいるのと同じ理由だ。人類が初めてアフリカの地を「脱出」したは、120万年前の「直立原人(homo erectos)」の時代だ。百万年くらいかけて世界(旧大陸)の各地に拡散した旧人類たち…。北京原人やジャワ原人やネアンデルタール人のことであるが、彼らがわれわれ現世人類の祖先ではないということが、最近の遺伝子調査によって明らかになった。つまり、中国人は北京原人の子孫ではなく、ドイツ人はネアンデルタール人の子孫ではないということである。百万年かけて世界の各地に「定着」したかに見えた"旧人類"たちは、今から約5万年前の気象変動で全滅してしまう。

 そして、約5万年前に、新たにアフリカを脱出した新しい人類たち(homo sapience)が、その後わずか期間に全世界に適応放散するのである。百万年前の直立原人たちは拡散したと言っても、アフリカ、アジア、ヨーロッパといわゆる旧大陸だけであるが、新人類たちは、ユーラシア大陸はいうに及ばず、大陸から1万キロも離れたポリネシアの島々や、極寒のベーリング海峡を渡り、南北アメリカ大陸を縦断。南米のパタゴニア平原の先端までわずかの期間に世界中に拡散してしまう。1492年のコロンブスによる「アメリカ大陸発見」なんて、ヨーロッパ"中華思想"以外のなにものでもない。実際には、その何万年も前から、共通の遺伝子を持った先住民たちがいた。この新人類たちは、極北の地に暮らすイヌイットから、酷暑の砂漠に住むベドウィン。あるいは熱帯のジャングルに住む人々と、全世界至る所に人の足跡が記されることになる。

 黒人も白人も黄色人種も、わずか5万年前にアフリカに存在したある小集団を起源としていることが遺伝子の解析から明らかになった。いわゆる「ミトコンドリア・イヴ」説というやつである。この違いはホモサピエンスと呼ばれる人々が、環境というものを自らの生存に適したように変えてしまう能力があったからだと言われている。つまり、遊牧や農業などを行ない、環境を自分にとって有利なように変えることができたからだと言われている。1年間に数キロ以上のスピードで新しい居住地域を開拓して行かなければ、わずか2〜3万年の間に、世界中にその居住区域を拡げることはできないことになるが、この「1年間に数キロ」という拡散距離は驚くべき数字である。自然人としてのヒトの寿命が三十年だったとして、おじいちゃんの代には大阪に住んでいた縄文人が、曾孫の代には東京に住んでいるという計算になる。


▼ギルガメッシュ叙事詩の世界

 そして、今から約数千年前に、人類史上最大の変化が訪れる。この変化は、生物学的な変化ではなく、文化的な変化である。メソポタミアに人類最初の都市国家というものが出現した。このことは、実は人類の歴史にとって大きな意味を持っている。なぜなら、それまでの人類は、それぞれ小規模な家族単位でばらばらに暮していたのであるが、メソポタミアに最初の「都市(ウル)」が造られ、その都市に人口集積が始まる。数千人、数万人規模の人が1ヵ所に定住するという、人類数百万年の歴史でかつてなかった現象が生じるのである。このことによって人類は、他者というものを、自己の目的を推進するための"手段"として取扱うようになる。人が人を支配し(武器が必要)、そのために法律を作り(統治機構が必要)、税金を集め(計算能力が必要)、記録を取る(文字が必要)といった、いわゆる現在のわれわれが行なっている人類文明の基礎というものが、この数千年前のメソポタミアにおいて始まった。この文明は、その後エジプトにも、それから、インダス川流域や黄河流域など、世界中各地に拡がっていって、現代の文明に直接繋がっているのである。

 このメソポタミアにおいて作られた人類の業績を示す最初の巨大構造物が、いわゆるジグラット――世間では「バベルの塔」として知られている――である。シュメールの古代都市国家ウルクの最初の王となったギルガメッシュは、レバノン杉の森に分け入り、青銅製の剣でこの森の木を切り倒し、森の神フンババと戦って、これを撃退し、レバノン杉の木材を使って(「ノアの方舟」も材料はレバノン杉である)そこに人類最初の都市文明というものを形成するという『ギルガメッシュ叙事詩』という文字で書かれた人類最古の物語が残っている。この話は極めて象徴的である。


バベルの塔とニムロド王

 ちょうど、映画『もののけ姫』において、シシ神の森を切り開いて文明化していこうとした「タタラ場(製鉄所)」の主エボシ御前とその配下の者たちと、いわば「手付かずの自然の森」を守ろうとした山狗に育てられた自然児サン=もののけ姫。そして、この2人の間で翻弄される少年アシタカといった中でストーリーが展開し、シシ神の森(森の神、山の神)と、人間の欲望に裏打ちされたテクノロジーという戦いになるわけであるが、この『ギルガメッシュ叙事詩』もその通りであり、森の神であるフンババと、人間の側の代表であるギルガメッシュが戦って、最終的には「森が森でなくなってしまう」という話である。そのことの結果の象徴として、天に向かって聳え立つジグラットが建てられるのである。「人間が人間である」ということと、手付かずの自然を壊し、都市というものを造るということとは、実は密接な関係があるのである。


▼都市と創唱宗教の関係

 この都市文明というものを前提に成立してくるのが、「創唱宗教」と言われる仏教であったりキリスト教であるのである。原始的なアニミズム的な宗教は、おそらく人類の最初の段階からあったであろう。しかし、後に「創唱宗教」といわれるような宗教であるキリスト教や仏教は皆、都市文明というものがその前提にあり、その都市文明における人間のあり方を問うところから始まっているのである。したがって、現代の世界に生きるわれわれにとって、あるいは、「宗教」と呼ばれている現象について考えようとするわれわれは、実は、古代の都市文明というものを抜きにしてはこれを考えることはできないのである。

 そういう訳で、この夏公開された映画『A.I.』と『メトロポリス』は、われわれに「人間とは何か?」という根本的な問いを投げかける助けとなっている映画である。惜しむらくは、コマーシャリズムの成果か、『A.I.』が空前の大ヒットを遂げたにも関わらず、その約1ヵ月前に封切られた『メトロポリス』は、私が観に行った時もそうであったが、ほとんどお客が入っていなかった。もちろん『メトロポリス』の内容が劣っているとはとても思えない。いや、むしろ『メトロポリス』の方が優れているとすら言えるかもしれない。もちろん、手塚治虫の20代前半という、まだ若い、こなれていない時代の作品であるので、若干深みに欠けるという点はあるが、それを差し引いたとしても、50年も前にこのような作品が作られていたいうことは、驚異に価する。もちろん、このすばらしい映像は現代のCGによって可能になったのであるが…。ただ、『メトロポリス』という映画は、おそらく海外においてそれなりの評価を得る可能性が大きいであろう。街の看板も風景も、すべて英語であったし、挿入されている音楽もディキシーランドジャズという、アメリカ人の好きそうなカテゴリーである。この映画が、かつて『もののけ姫』が世界的成功をおさめたのと同様、海外のマーケットにおいて、成功をおさめることを期待すると共に、そのことを通して、日本のアニミズム文化というものの理解が一人でも多く得られれば、それは大きな意味があり、泉下の手塚治虫も喜んでいるであろう。

 言うまでもないことであるが、『メトロポリス』に登場する秘密結社マルドゥク党の「マルドゥク」とは、『ギルガメッシュ叙事詩』に出てくるバビロンの主神の名前であり、ティマも、世界を産み出した海の塩水をあらわす女神ティアマトから採られたものであることを付け加えておく。

 


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