プーチン王朝:検証1999年末の「予言」
 07年12月31日



レルネット主幹 三宅善信


▼1999年12月31日という日

  今から8年前の1999年12月31日、世界は「Y2K問題」と呼ばれるいわゆる西暦2000年1月1日に発生すると言われていた世界規模でのコンピュータの誤作動に戦々恐々としていた。20世紀の後半に広く普及したコンピュータは、今では考えられないようなことではあるが、当時のメモリ容量の制約もあって、大部分のパソコン内に埋め込まれた「時計」の年月日を示す部分が、「年」の部分が1900年代の下二桁をとって「yy年mm月dd日hh時mm分ss秒」というように認識されていた(註:そのことによって、ある日時と別の日時との「差」が計算できた)ため、いきなり、その「年」の部分が、00年になってしまえば(例えば、12月1日から1月1日までの日割り金利を計算するとしたら、本当は「2000年01月01日―1999年12月01日」という計算をして、「31日間」という答えを出さなければならないのに、「00年01月31日―99年12月31日=99年11カ月」というように誤計算にしまうことによって)、コンピュータが世界規模で誤作動を起こして、社会が大変混乱するという話であった。実際には、そのことに対する準備措置が十分にとられたことと、社会に徹底が図られたことによって、なんら「予想外」の事件は発生しなかったという、今となっては笑い話のような話である。

  ところが、その12月31日に、その後の世界に大きな影響を与えることになる大事件が起こった。それは、ロシア連邦のエリツィン大統領(肩書きは当時)が、なんと、大統領としての任期を半年間余して、急遽、大統領職を辞任して、あろうことか、その後継者として、政治の表舞台に頭角を現してわずか数か月しか経っていないプーチン氏(当時は首相)を「大統領代行」に指名したのである。こうして、思いも掛けないミレニアム年の幕開けとなった。

その後、プーチン大統領代行、そして2000年3月以後は「大統領」が行った数々の政策については、いちいち私がここで書き連ねるまでもないであろう。プーチン大統領がこの8年間に行った政策を一言で書けば「大国ロシアの威信を回復する」の一語に尽きるであろう。そして、そのことは、チェチェン人をはじめとするダゲスタン(コーカサス)地域の「独立推進派」に対する氏の軍事的強行手段の選択や、ロシア国内の反対派に対する人権を無視した強権的対応は、皆、その翌年に勃発した「9.11」米国中枢同時多発テロ事件に対するブッシュ政権の「先制攻撃論(註:国連の承認を得なくとも、自国が勝手に「テロ攻撃」と認定さえすれば、相手国に対する「防衛」と称して、テロリストを匿っていると思しき国に対して、先制攻撃を行うことも正当化される)」によっても、完全に免罪符を与えられた感がする。

おまけに、その後の原油や天然ガスをはじめとする地下資源価格の高騰(註:プーチン大統領は、欧州への天然ガスのパイプライン供給を戦略的に用いることによって、ウクライナやベラルーシというかつてのソ連邦の構成共和国や東欧諸国への影響力を回復したことを揶揄した表現として「ガスプーチン」とも呼ばれた)という「神風」によって、ソ連解体後「三流国家」に落ちぶれていたロシアが、今では、中国・日本に次いで外貨準備高第3位の経済大国にのし上がってきた。かつて「米ソ両超大国」と言われた時代でも、常に外貨不足にピーピー言って、共産党政権の反米路線とは裏腹に、自国民はせっせと闇ドルを貯め込んでいた時代からは、想像も付かないであろう。逆を言うと、ロシア国民からは、ソビエト共産党の歴代指導者(書記長)が逆立ちしてもできなかったことを40代の若きプーチンがさっさと実現してしまったということである。もともと、ロシア人には「民主主義」の経験がないのであるから、「絵に描いた餅」であるところの青臭い民主主義よりも、反体制派活動家の人権が少々蹂躙されようと、大多数の国民が豊かになれば、そちらのほうが好ましいと考えるのも無理はない。


▼小渕総理がプーチン政権を生み出した?

  かくして、当『主幹の主観』シリーズの2000年1月3日号の『「ヤマトの諸君」:プーチン首相の正体』で私が記したプーチンという人物のやろうとしたことは、ことごとく現実のものとなった。あの時は、プーチン氏が大統領代行に指名されてわずか三日しか経っていなかったにもかかわらず、既にその後の8年間の片鱗がプーチン氏に見え隠れしていた。ということは、現在のプーチン氏のあり方は、人間ウラジーミル・ウラミージロヴィチ・プーチンの本質的あり方に根ざしているものと言えよう。

  その際、私はプーチン首相兼大統領代行の権力のあり方をして、大統領職と首相職を兼任したドイツ第三帝国の「総統」ようである。あるいは、その風貌からして、アニメ『宇宙戦艦ヤマト』のデスラー総統のようである。と書いたが、果たして読者の中で、その当時の私の「予言」をどこまで検証していただいたであろうか? しかも、私は、その文章の中で、エリツィン大統領が、任期を半年残して、突如その政権を放り出した原因のひとつに、「2000年のG8サミットの日本開催が挙げられる」というユニークな説を披露した。私は、その中で、「それまでG7+1と、あくまでゲスト扱いであったロシアが正式にG8メンバーに認められた記念に、2000年のサミットのロシア開催を希望し、該当年の議長国に当たっていた日本の小渕首相に『ミレニアム年のサミット開催をロシアに譲って欲しい』と依頼したのに、断られたから」という理由まで述べた。

  その小渕総理も、2000年の沖縄でのG8サミット開催を決めながら、自らが開催地を決めたサミットに参加することなくこの世を去った。また、2008年の洞爺湖でのサミット開催を決めながら、就任して一年しか経っていなかった安倍総理も無念の退陣を余儀なくされた。その意味で、日本開催のサミットは自民党政権にとって必ずしも人気浮上のブースターになるどころか、政権を危うくする諸刃の剣かもしれないのである。ここ二十数年来、日本では国内政治では既存の利害の調整がつき難い事象に対して、「外圧」を利用して、「国際公約だから○○しなきゃしょうがない」ということにして処理してきたが、その国際公約を果たすためのタイムリミットの設定として、しばしば「サミットまでに」という常套句が用いられてきたことも事実である。


▼北海道・洞爺湖サミットがもたらす株価の下落

  しかも、今回の北海道洞爺湖サミットは、「地球温暖化防止」ということが大きなテーマとなっている。というか、1997年12月に京都で開催されたCOP3(気候変動防止枠組条約第3回締約国会議)の際に採択された『京都議定書』に定める温室効果ガスの排出削減の具体的実施が2008年1月1日から始まるのであるが、『京都議定書』採択時の議長国であった日本も、『京都議定書』が要求する「1990年時点の排出量からの6%減」が目標として設定されているにもかかわらず、2007年末の現時点では、削減どころか逆に「8%増」となってしまっており、1月1日から始まる削減実施約束期間である2008年から2012年までの5年間で、現状から14%を削減することは不可能であると言えよう。

  そこで、日本政府は考えた。直ぐに結果が出てしまう(公約が達成できなかったことが白日の下に曝されてしまう)「2012年までに14%削減」よりも、おそらくその頃には、現在の政治家が誰も生きていない(したがって、誰も責任を負わなくて済む)「2050年までに50%削減」へと先延ばししてしまおうと…。日本人お得意の「決定先延ばし戦術」である。事実、12上旬にインドネシアのバリ島で開催されたCOP13では、日本政府は、十年前に自らがイニシアティブをとって制定した『京都議定書』を事実上、葬り去ってしまうような姿勢へと方向転換した。このことによって、地球温暖化防止に熱心な西欧各国からの信頼を失うことになった。こんなことなら、はじめからアメリカのように傍若無人に振る舞っておいたほうが美味しかったとも言える。温室効果ガスを排出したいだけ排出しておいて、換算基準となる数値を上げておいて、新たに設定される基準下において、最もドラスチックに削減したほうが大向こう受けしたに違いない。

  今回のテーマは「地球温暖化防止」ではないので、これ以上触れないが、おそらくG8サミットで、14%削減の達成が困難になった日本は、毎年数兆円支払って排出権を購入させられることを国際公約させられ、これが日本経済にとって新たな頸木となって株価の下落を招くことは必定であろう。自ら、まったくと言って良いほど温室効果ガスの削減を行っていないにも拘わらず、排出権取引という新たな金融商品を考案して金儲けを行っている国があるというにもかかわらず…。サブプライムローン問題でも明らかになったように、デリバティブをはじめ、いかに「証券化」という手法が欺瞞に満ちた行為であるかということに一刻も早く気づき、実体経済の何千倍もある「先物経済」というリバイアサン(註:旧約聖書に登場する怪物)を打破してゆく先頭にこの国が立つことを私は望むものである。


▼サミット会議を如何に再生されるか

  だいぶん話が逸れたが、北海道・洞爺湖サミットに話を戻そう。G8サミット主要国首脳会議(以前は、G7先進国首脳会議)は、十年ほど前から当初の目的が失われ、すっかり性質の違うものになってしまった。それは、ポスト冷戦後のグローバル経済がもたらしたネガティブな要素に反対する市民運動家(NGO)たちの「反グローバリズム」抗議活動が、インターネットの普及を通じて、国境を越えて連帯するようになり、世界中のどんな地域でサミット会議を開催したとしても、会場周辺で大暴れするようになり、そのことを避けて、本来は「民衆と共にあるべき」民主主義国家の首脳たちの会議(G8サミット)が、警備の利便性という理由だけで、一国の首都は申すまでもなく、人里から遠く離れた離島や山岳地帯で開催されるようになったことである。2007年のハイリゲンダムしかり、2008年の洞爺湖しかりである。

同じ人里離れた北海道の風光明媚な土地で開催したいのなら、知床半島で開催すれば良かったと思うのは私だけであろうか? そうしたら、第二次大戦後「ロシアが不法に占拠している(と日本政府が主張している)国後島」が目の前に見え、サミットに参加する「ロシアの代表」に言わずもがなのプレッシャーを与えることができたのに…。8年前の沖縄サミットの際にも、世界各国に「沖縄にはこんなにもたくさん米軍基地があって、まるで日本はアメリカの属国みたいだ」という情報を発信することができたというのに…。

  そのようなG8サミットの本来の趣旨からだんだんと遠のいてゆくサミットを本来の意義あるものにさせるためには、サミット会議をひとり主権国家の政府代表間だけの会議とせずに、広くNGOや多国籍企業の代表も交えた意見の交換の場にする以外、再生の道はない。その意味で、いささか我田引水のきらいはあるが、今回、私が事務局長を務めている「G8宗教指導者サミット」もひとつの解決手段の提案となりうる。なぜなら、G8参加国の内、日本以外の7カ国は、基本的には「キリスト教の国」であり、彼らの発想の中には、所詮「一神教的前提」が横たわっており、今日の中東における際限のない暴力の応酬を断ち切るには、「All or Nothing」の一神教的アプローチでは、敵を皆殺しにするまで絶対に解決を見ることはできないことは明らかである。仏教が説く、正義を度外視した非暴力の精神の導入を試みる必要があると思われる。同様に、地球温暖化の防止についても、自然を非造物(絶対神の創り出した対象物)と見る一神教的アプローチでは効果的な方法は見つからないであろう。神仏も人間も「自然の一部」(つまり、自然のほうが神仏よりも尊い、価値のあるもの)と見るアニミズム的価値観(神道もその一部)の導入なしには、今後の展望が開けないと思われるからである。その意味でも、日本の役割は大きい。


▼権力交替を制度化することこそが民主主義

  さて、三度ロシアへと話を戻そう。私はサミットの知床半島開催案で、ロシアから参加する首脳のことを、「ロシア大統領」ではなく「ロシアの代表」と書いたのには訳がある。3月2日に行われる予定のロシア連邦の大統領選挙は、事実上、プーチン大統領が指名した「後継者」であるところのメドベージェフ第1副首相の圧勝が確実視されており、問題は、大統領に就任したメドベージェフ氏がプーチン前大統領を首相に推薦することの是非である。一般に、共産主義諸国をはじめとする全体主義国家においては、最高権力者には「任期」がなく、政策上の失敗の「責任」が問われるということはない。つまり、事実上の「専制君主」である。

逆を言うと、いったん権力の頂点を極めた者は、次々と(自分に取って代わる危険性のある)ナンバー2を粛正してゆかねばならず、逆に、無事「引退」するということは、事実上不可能である。独裁者がその地位を去る時は、「死」以外にないという悲惨な最期しか見えてこない。だから、年老いても、その地位にしがみついていなければならず、そのことが巧く行けば行くほど、結果として、その国力が競争力を失い、国民はますます酷い生活を強いられることになるのである。そして、最後に二進も三進も行かなくなって「革命」が起こって、独裁政権が崩壊することをわれわれは、何度もこの目で見てきた。

  つまり、民主主義国家と独裁専制君主国家との違いは、いかに血を見ることなく最高指導者が交替することができるシステムがその政治体制内に織り込まれているかとどうかという一点に掛かっていると言っても過言ではない。そこで、多くの国で採用されている制度が、多少の長短の差はあれ、最高権力者の「任期の制限」である。共和制の国家では「最も長い歴史」を持つアメリカ合衆国の大統領が、その初代ワシントン大統領の時代から、1期4年で三選禁止(最高8年間まで)ということは誰でも知っている。多くの共和制の国家は、この例に倣い、大抵は「三選禁止」を謳っている。フランスの大統領は、先々代のミッテラン大統領の時代までは、同じ「三選禁止」といっても1期7年間だったので、最長14年間もその地位を維持することができたが、それも1期5年に短縮されたので、最長でも10年間になった。

最も極端な例は、日本以上に厳しい「戦争放棄」を謳った憲法を有する中米のコスタリカという国は、大統領をはじめ国会議員に至るまで、全ての公職は任期4年で、同一選挙区で「再選禁止」ということが憲法に規定されており、国会議員も選挙が行われるたびに全員入れ替わる。ここまで、徹底しないと、「権力が腐敗する」と考えるのである。もちろん、日本のような「世襲の職業政治家」なんてことは考えられない。因みに、現在の日本の衆議院選挙における「小選挙区と比例区から2人の候補が交互に立候補して、半永久的に議席を確保し続ける」という意味での「コスタリカ方式」というのは、中米コスタリカの選挙方式とは、その精神においても、実情においても全く異なるものであることは言うまでもない。


▼首相→大統領→首相…?

  さて、問題のプーチン大統領である。共産主義国家であったソビエト連邦が崩壊してできたのがロシア連邦である。そこでは、当然「民主主義」を標榜している限り、最高権力者である大統領の任期は制限しなければ、「民主主義の先輩」である欧米各国から信用されない。さりとて、まさか「1期10年の三選禁止」なんて、事実上、任期が生涯も同然の制度を立てる訳にもいくまい。そこで、プーチン氏は巧い方法を考えついた。2期8年間の大統領職退任後も、大統領選挙と同時に実施される国会議員選挙において、比例名簿のトップに自分を据えて国会議員に当選し、なおかつ自分が大統領の後継指名を行ったメドベージェフ氏から、首相に指名して貰うという方法である。

場合によっては、いったん首相に就任してしまえば、現在の強大な大統領顕現を縮小して、その権限の大部分を首相に移管してしまうという手も考えられる。フランスと韓国を除いて、大統領と首相が同時に存在する国家の大部分は、ドイツでもイスラエルでもインドでも、大統領は多分に儀礼的な存在で、政治上の実権は首相が握っている場合のほうがはるかに多いからだ。

  このように、大統領と首相の間を行ったり来たりするという前代未聞のシステムをプーチン氏が思いつくようになったそもそものきっかけは、今を去る8年前の1999年の12月31日のエリツィン大統領(当時)から、突然のプーチン首相(当時)への大統領職代行の指名であり、その意味でも、この事件の歴史的意義は大きいと思うと同時に、8年前の拙文『「ヤマトの諸君」:プーチン首相の正体』が予言したことが悉く現実のものとなったことは、われながら先見の明があったと思われてならない。

戻る