生物多様性を貶めるCOP10   

 10年10月10日



レルネット主幹 三宅善信  


▼ 国益を損ね続ける民主党政権

  明日から10月29日までの約三週間、名古屋で国連生物多様性条約(UNCBD)第10回締約国会議(COP10)が開催される。今年、日本で開催される国際会議としては、11月中旬に横浜で開催される第22回APEC(アジア太平洋経済協力)首脳会議と双璧の大規模会議である。ただし、APECは、オバマ米大統領・胡錦涛中国主席・メドベージェフ露大統領を含む21カ国・地域の首脳および関係閣僚が一堂に会する(註:APECはあくまで「経済フォーラム」であって、常設の「機構」ではないが、台湾の首脳は参加しない慣例になっている。したがって、会議場では各国の国旗は掲揚してはいけない)とはいえ、わずか二日間のパフォーマンス的会議に過ぎず、その意味では、最近にわかに脚光を浴びだしたTPP(註:環太平洋戦略的経済連携協定)に、将来その主役の座が奪われるかもしれない。

  その点、各国の「首脳」はほとんど参加しないが、アメリカ合衆国とアンドラ公国(註:フランスとスペイン国境バスク地方に8世紀以来存続している人口わずか7万人の小国)を除く全国連加盟国がこの生物多様性条約(UNCBD)を締約しており、毎年開催されている国連気候変動枠組条約(UNFCCC)の締約国会議と共に、世界中で最も多くの政府が関わって、地球規模の問題に取り組むための枠組みである。そのUNCBDの第10回締約国会議(こちらは、隔年で開催されている)が、日本が議長国となって名古屋で開催されるというである。このような、人類だけでなく、地球上の全生命の運命まで左右する重要な国際会議が日本で開催されているというのに、日本政府およびマスコミの主な関心は、「尖閣事件」(註:この問題に関する私の見解は『世界にひとつだけの華:尖閣事件考』述べたとおりである)への対応を巡っての中国政府との鍔迫り合いに関することばかりで、大局を見誤っていること甚だしいかぎりである。

  「菅・仙石政権」に統治能力がないと見るや、その弱点に中国ばかりか、ロシアまでつけ込んできて、国益を損ねること限りがない。本来ならば、「ならずもの国家」の北朝鮮だってつけ込みたいところであろうが、キム王朝の存続に関わる世代交代期間中でそこまで余裕がないことがせめてもの救いである。それもこれも、直接の原因は、昨年秋以来の普天間基地の移転先をめぐる「鳩山・平野政権」の迷走がもたらした負の遺産であることは言うまでもない。ドラえもん(アメリカ)の付いていないのび太なんて、ジャイアン(中国)のやりたい放題である。本件についての判りやすい解説は、大阪大学の坂元一哉教授の講演『鳩山政権と日米関係:混迷の8カ月半を振り返って』をご一読されたい。鳩山前総理は、日米中“二等辺三角形”論といって、「中国と仲良くしていくためには、これまで緊密すぎた日米関係を少し疎にしたほうがよい」と寝言のようなことを言って、それを実行――普天間基地移設を巡る橋本龍太郎政権以来の日米合意をフイに――した(因みに、橋本政権は1997年11月、エリツィン大統領との間で、「2000年までに日露平和条約を締結する」という『クラスノヤルスク合意』も取り付けている)。また、首相退陣後も、のこのこと中国(上海万博)やロシアまで出かけていってノー天気ぶりを発揮した。その意味では、新自由主義経済の強引な導入によって、国富を外国金融資本に与え、希望のない格差社会を創り出した「小泉・竹中政権」の罪よりも、直近二代の民主党政権のほうが、はるかに罪が重いことは言うまでもない。


▼ 生物の多様性そのものに無条件で価値がある

  しかし、これらの国益に対する大変なロスの問題よりも、さらに大きな人類史的課題は、「生物多様性(bio diversity)」の維持の問題である。48億年という悠久の歴史を経て進化発展してきた数千万種に及ぶ生物種が、21世紀に入ってからは1日に100種というとんでもないスピードで絶滅して行っているというのである。ここでいう「種(species)」とは、ヒトとかライオンとかシマウマといった「(自然の状態下において)♂♀間で子孫を残すことができるひとくくりの仲間」という意味の分類上の集合という意味であって、ヒトとチンパンジーとかシマウマとウマの間では子孫は残せないので、別の種の生物ということになる。この「種」という単位でもって生物界を眺めたとき、1日に100種の割合で絶滅して行っているという事実は、とんでもない事実である。

  あたかも、6,550万年前、数億年に一度という、超巨大隕石(小惑星)の衝突によって、地球上の至るところを闊歩していた恐竜たちが一挙に絶滅したのと同じくらいのディープ・インパクトが毎日勃発していることになる。それも、宇宙的規模での自然現象のせいではなく、化石燃料の一挙燃焼による温室効果ガスの大量放出による地球温暖化現象の影響によって…。だから、仮に運良く、映画『ジュラシック・パーク』のごとく、ティラノサウルスのような超巨大恐竜が現在まで生き残っていたとしても、明日突然、われわれの眼前から姿を消してしまうかも知れないのである。この日本でも、ニホンオオカミやニホンカワウソやトキといった動物が姿を消したことをわれわれは知っている。いったん絶滅してしまった生物種を再度人工的に創り出すという技術は、科学文明の発達した現代社会においても、まだまだ“神の領域”である。その意味で、「一切の衆生(all senescent beings)は尊い」ということが言える。わが国、古来の「草木国土悉皆成仏」という天台的な世界認識とも矛盾はしていない。つまり、「生物の多様性そのものに無条件で価値がある」ということである。

  ところが、今回のUNCBD会議でも、例えば、北米産の淡水魚ブルーギルやブラックバスといった外来種が人為的に持ち込まれたことによって、シベリアのバイカル湖やアフリカ東部大地溝帯にあるタンガニーカ湖などとともに、「古代湖」として地球上で最も長い歴史を有し、豊富な固有種(註:特定の限定された地域=隔絶された島嶼・水系・洞窟等=内においてしか棲息・繁殖できない生物種)に恵まれていた琵琶湖から、アブラヒガイ・スジシマドジョウ・イワトコナマズ・ホンモロコなどといった10種以上の魚類が絶滅の危機に瀕している(註:水質汚染によって魚類より多くの貝類のほうが絶滅の危機に曝されている)ことなどは、世人のよく知るところである。(註:このケースとはまったく逆に、日本全国の河川で釣り人たちのためにアユの稚魚を放流しているが、その大半は「琵琶湖産のアユの稚魚」であるため、日本中の河川にそれぞれ独自の適応を遂げて棲息していたアユたちが、琵琶湖産のアユに取って代わられたり、交雑が進んでしまったりもしている)このような“事件”は、陸海空の地球上のあらゆるところで起こっているであろうから、私はてっきり今回のUNCBD会議でも、「生物の多様性」をいかに確保してゆくか(=人間の社会的活動の制限)についてや、人為的に創られた「遺伝子組み換え生物(主に農作物)」を誤って環境中に放出させてしまい、特定の地域の生態系に悪影響を与えてしまった場合、いったい誰が責任を負うのかについての国際ルール作りが話し合われるものといったような内容について話し合われるのかと思いきや、なんと会議の大半は、「遺伝資源の利用とその利益配分」について話し合われることになるそうである。


▼「遺伝資源の利用とその利益配分」の問題点

  「遺伝資源の利用とその利益配分」とは、ひとことで言えば、Aという先進国にあるBという製薬会社が、Cという途上国のジャングルの土中にあったDという菌類から、画期的な抗癌剤Eを開発して大儲けしたら、そのDという菌(遺伝情報)の「提供国」であるC国にも「その分け前を寄こせ」という極めて品のないやくざな話である。ここでも、地球温暖化問題における“排出権取引”同様、国連主導の国際会議お得意の「先進国と途上国の間の金まみれの闘争」が繰り返されたのである。しかし、この問題と温室効果ガスの問題とは、根本的に意味が違うことは明らかである。大気には“国境”がないから、先進国Aが排出した温室効果ガスによる温暖化の影響は、地球の反対側にある途上国Cにも及ぶ。でも、何千万年も前からC国のジャングルの土中にあるDという菌だけでは、何の役にも立たない。何万種とある菌の中から、医学的に「役に立つ菌D」を選別し、これを原料にして医薬品Eとして製品化するためには、Bという製薬会社のノウハウや設備や資本があって初めて可能になるのである。その意味で、本件については、途上国Cが、抗癌剤Eのもたらす利益に対して配分を求める権利などない。ましてや、いったん画期的な特効薬が開発されたら、その恩恵に浴するのは、特定の国の人々だけでなく、全人類がその恩恵に浴することになるのである。

  そんなことが言えるのなら、インフルエンザの特効薬「タミフル(商品名)」=オセルタミビルリン酸塩(化学式はC16H28N2O4)の主原料は、中華料理で広く使われている香辛料の八角であるから、スイスの製薬会社ロシュ社は、中華料理屋に資金提供しなければならないことになる(註:タミフルについては、約1年前に上梓した『新型インフル大流行アメリカ陰謀説』をご一読いただきたい)。ましてや、「各種の民間療法まで含む“先住民の智恵”にまで対価を払え」というのなら、リグベーダや聖書や古事記にまで、「知的財産への対価」を支払わなければならないことになってしまう。

  途上国の中には、「先進国が現在、持ち出しつつある途上国の遺伝的資源」だけでなく、「何百年も過去に遡って対価を支払え」と主張している国も少なくない。そんな政府の代表者には、「何百年も前にあなたの政府は、その地域を本当に統治していたのか?」と問い返せばよい。場合によっては、先住民はもとより、以前その地域を支配していた別の政権を追い落として現在に地位を築いた政府も多々あるであろう。よく、日本との間の「領土問題」に関して、ロシア政府や中国政府は「第二次世界大戦の結果、決定した国境の変更を迫るいかなる要求も不正義であって、これらの要求は断固として受け付けない!」と声高に叫んでいるが、私から言わせば、中華人民共和国が成立したのは、日本が戦争に負けた1945年から4年も経過した1949年のことであって、彼らが「戦勝国」としての権利を主張する資格すらないと思っている(註:1911年以来存在している台湾の中華民国には、主張する権利がある)。ましてや、1992年に成立したロシア連邦なんぞに「先の戦争云々」と言われる筋合いはない。

  仮に、百歩譲って「戦争によって確定した国境は何人たりとも異を唱えては行けない」というのであれば、「国際間の紛争を解決する手段としての戦争は、唯一の正しい方法である」ということになるし、その結果に不満を持つ人々(主として敗戦国側の人々)は、その結果を変更する手段として、再度戦争に訴えることが唯一の道として奨励されることになり、世界中の至るところでエンドレスの戦争をしなければならないことになり、まさに呉越両国のような「臥薪嘗胆」の戦国時代とならなければならない。したがって、途上国が先進国に対して「何百年も遡って、遺伝的情報の使用料を支払え」というのも、単なる強欲話に過ぎないことであって、そんな話は決然として「ノー」と言ってやればよい。


▼「宗教の価値」を理解できない環境省に問題解決能力はない

  というわけで、せっかくの今回の名古屋での「生物多様性条約」会議も、たいした成果が出ないであろうことは、ある程度、やる前から判っていることである。人類だけでなく、今、全世界の生きとし生けるものにとって最も大切なことは、生物多様性の保全であって、そのことをより有効に担保するためには、快適で便利な人間の社会経済活動に対して、何らかの方法によってこれに制限を加えること以外に方法はない。個人や団体(会社)の利己的欲求を全肯定する資本主義市場経済の原理がこのような多様性を容認するはずがないことは、世界中どの街に行ってもあるハンバーガーチェーンや、世界中のほとんどのパソコンに内蔵されているプロセッサを見るまでもなく、明らかである。また、最大多数の最大幸福を追求する民主主義的政治形態も、おそらくマイノリティに対しては積極的な保護の手を差し伸べないであろう。何故なら、民主主義は「多数決の論理」でものごとを決するからである。

  そのような状況下で、唯一、快適で便利な人間の社会経済活動に対して、何らかの方法によってこれに自主的な制限を加えることが可能なのは、“宗教”をおいて他にはない。イスラームのラマダーン(断食月)しかり、仏教の菜食主義しかり、神道の禊ぎや修験道の滝行しかり、宗教には「快適で便利な」人間の社会経済活動の真逆を指向するものがいくらである。ところが、あろうことか、今回の名古屋での「国連生物多様性条約会議」への参加を申し込んだところ、事務局を務める環境省の役人から「いかなる宗教関係者の参加も認めません!」との意外な答えが返ってきた。われわれは、国連経済社会理事会(Eco.Soc.)に総合諮問資格を有する国際NGOのひとつであるWCRP(世界宗教者平和会議)日本委員会の開発・環境委員会として申し込んだにもかかわらずである。まあ、アホな小役人の現場の判断だったのであろうが、呆れかえってしまった。この程度の理解しかない小役人が会議を仕切っているとしたら、今回の名古屋での国連生物多様性条約会議が巧くいくはずはないと断言できる。「宗教的視座」を抜きにして「生物多様性」について考えること自体、ナンセンスである。


コペンハーゲンで開催されたCOP15で福山哲郎官房副長官
(当時は外務副大臣)と歓談する三宅善信代表

  因みに、私はこれまで、インドネシアやポーランドやデンマークで開催されてきた国連気候変動枠組条約(UNFCCC)の締約国会議(COP13〜15)にも正式に参加してきたし、海外で開催されたこれらの会議に参加を断られたことは一度もない。何故なら、WCRPはEco.Soc.に総合諮問資格を有する国際NGOだからである。まさか、地元の日本で参加を断られようとは考えても見なかった。おそらく、現在の日本政府が「多様性」ということを理解していないのであろう。この問題は、ひとり生物の種の多様性だけの問題ではない。人間社会の民族・文化・言語・宗教等のすべての要素の多様性をいかに尊重するかということと密接に関わっている。百年前には、地球上におそらく6,000以上あった言語は、600言語ぐらいにまで減少してしまった。あと百年もすると、人類の話す言語は60言語ぐらいになってしまうかもしれない。

  おそらく、この百年間で、全人類の内、「英語を話す人々」の割合は、二倍以上に増えたことであろう。これは主に、第二次世界大戦の結果(註:敗戦国の日本やドイツでは、英語は中等教育において必須科目となった)と、その後のアメリカによる経済的世界支配が原因(註:国際貿易を行う上で、決済を行う基軸通貨が米ドルに限られたこと)等による。中国語(漢語)を話す人々の割合もしかりである。一方、百年前の中国(当時は清帝国)の公用語であった満州語を話せる人々は数千万人居たであろうが、現在では、十数人しか生き残っていない(この辺りのことについては、『「歴史」となった中華人民共和国』をご一読いただきたい)。中華人民共和国においては、内包する数十の少数民族の言語は皆、似たり寄ったりの状況である。もちろん、その主な理由は、中国共産党政権による“民族浄化”が大規模に行われているからである。中国政府とって、政治的に「商品価値のある」四川省のジャイアントパンダは保護されても、政治的に「商品価値のない」四川省のチベット系少数民族は迫害されているのである。


▼ 民族・言語・文化・宗教の多様性こそ重要

  民族(少数民族)と言語の関係は、また、固有の文化や宗教の問題とも非常に関連が深い。例えば、欧米人が自分たちの生活様式であるナイフとフォークを使った食事様式を、右手だけで食べるインド人に強要したらどうなるか? 神代の昔から箸で食事をしている日本人に強要したらどうなるか? このようなことがナンセンスなのは誰でも直ぐに判るであろうが、各国国字のローマ字化などを大真面目に主張している勢力の主張に対する反論となると、言いくるめられる人も結構居るであろう。しかし、同音異義語が多数ある日本語の場合、一音節一文字の仮名書きのローマ字表記化が弊害のほうが多いことは明らかである。試しに、この前段の文章をローマ字だけで書いてみれば、読む場合に、その難しさが容易に理解できるはずである。「Shikashi, douonigigoga tasuaru nihongonobaai, ichionsetsu hitomojino kanagakino romajihyokikaga heigainohouga ooikotowa akirakadearu.」と書かれても、なんのことだかサッパリ解らないであろう。因みに、この文書は、ワープロの「ローマ字変換入力」機能を用いて書かれているので、ブラインドタッチでキーボードを叩いている時は、このように打ち込んでいるのであるが、視界から文書の内容を掴み取るとなると、話は別である。

  ましてや、少数民族の独自の宗教や風習を政治的に抑圧するなんぞという行為は、許されて良いはずがない。あるいは、たとえそれが少数民族でなくても、思想や信教の自由は最大限、保障されるべきものである。その意味からも、私は長年にわたってIARFという、宗教的マイノリティの人権擁護に関わる国連経済社会理事会に総合諮問資格を有する国際NGOの役員を務めてきたし、また、チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世を支援する活動に関わってきた。その意味でも、生物的多様性の担保の人間社会への導入としての民族的・言語的・文化的・宗教的多様性の尊重は、極めて重要な世界認識であると私は理解している。

  このように、具体的な生物種の多様性を担保するためにも、宗教的な考え方や行動様式を導入することは、必須の要件であり、それ故、その宗教関係者を排除しようとする環境省(日本政府)の態度は許し難いものであり、このような姿勢でこのCOP10生物多様性条約締約国会議を運営するのであれば、その内容は、単なる「遺伝資源の利用とその利益配分」を巡る先進国と途上国の主張を足して二で割っただけのつまらない内容の会議になってしまうこと請け合いである。NHKをはじめとするメディア各社も、つまらない環境運動NPOの活動を紹介するのでなく、文明史的なビジョンを持ち、なおかつ、自然への畏敬の念を懐き、現代文明の目標としている「便利で快適な生活」の自己制約という「少欲知足」という生活スタイルを実践している宗教家の声に耳を傾ける姿勢をもつべきであると思っている。

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