大政奉還ノススメ   

 10年11月09日



レルネット主幹 三宅善信  


▼ たいしたことなかった坂本龍馬

  1867年11月9日(慶応3年10月14日)、15代将軍徳川慶喜が、二百数十年間にわたって江戸幕府へ委任されてきた統治権の返上を朝廷へ上奏した。世に言う「大政奉還」である。翌10日、わずか1カ月前に即位したばかり(註:孝明天皇崩御に伴う践祚は約10カ月前)の弱冠15歳の睦仁帝(註:「一世一元」の制が定められたのは、明治になってからであり、このあと約10カ月間「慶応」が続いてから後に「明治」に改元されるので、正確にはこの時点では「明治天皇」は存在しないし、弱冠15歳で即位した天子の下、朝廷の実権は、孝明帝の信任も篤く、将軍慶喜の従兄弟でもある親幕派の摂政二条斉敬が握っていた)はこれを正式受理し、勅許の沙汰書を授けた(註:というより、受理を決定した朝議そのものに当の徳川慶喜自身も、正二位・内大臣・右近衛大将の朝臣として出席していたのであるから「出来レース」であった)。世間では、NHK大河ドラマ『龍馬伝』のブームもあって、「薩長同盟」も「大政奉還」も皆、坂本龍馬の業績のように描かれているが、そうではないことは言うまでもない。確かに、幕末・維新期における坂本龍馬の働きは少なからずあったが、世間で信じられているほどの「龍馬が居なければ、明治維新はなかった…」かのごときのものではないことは言を待たない。

  明治10年頃には既に、明治維新に最大の功績があった人物としては、大久保利通・木戸孝允・西郷隆盛の三名が「維新三傑」として国民的合意が形成されていた。西郷に至っては、直前の西南戦争で「賊軍の将」として戦没しているにもかかわらず、「三傑」に入れられていたということは、西郷隆盛が誰の目にも動かすことのできない明治維新最大の功労者ということであったのであろう。さらに、功労者の枠を「十傑」にまで拡大しても、薩摩から小松帯刀、長州から広沢真臣・大村益次郎・前原一誠、肥後の江藤新平、肥前の横井小楠、それに公家の岩倉具視らの名前が見えるが、現代では「維新の立役者」として人気者の高杉晋作の名も、坂本龍馬と共に見当たらない。中には、「高杉も龍馬も維新を待たずして死んだからだ」という人が居るかもしれないが、これらの十傑の中には、先述の西郷隆盛はもとより、江藤新平も前原一誠も、維新後の権力争いに敗れ「謀反人」の汚名を着せられ刑死させられているにもかかわらず「十傑」に採用されているということからしても、そこにも名前が出てこなかったということは、本当は「高杉も龍馬もたいしたことなかった」というのが“歴史的事実”であろう。無位無官どころか、一介の脱藩浪士が、時の政権の中枢部にいた人々に影響力を行使できるほど、現実の政治は甘くはない。明治2年に行われた新政府の論功行賞に、当然、坂本龍馬の名前はない。そのことは、維新後、西郷が2,000石、木戸が1,500石、後藤が1,000石を下されたのに、龍馬の甥が継いだ坂本家はわずか30石ということからも窺える。


▼ 創られたヒーロー坂本龍馬

  ところが、人によっては、「龍馬が居なければ、明治維新は起こらなかった」とまで、本気で思っている人がいるから驚きだ。ならば、何故、坂本龍馬はこれほどの「スーパーヒーロー」になった――創り上げられた――のであろうか? それには、いくつかの理由が考えられる。まず、第一は、勝海舟の存在であろう。勝海舟というと、「幕府側を代表して、西郷隆盛との直談判を行い、江戸城の無血開城を行った人」として誰でも知っているが、れっきとした幕臣(旗本)で、明治維新前の時点では、下級公家出身とはいえ、一応は公家であった岩倉具視を除けば、本論で登場した「十傑」の誰よりも家柄も上であった。おまけに、旧幕臣としては珍しく、新政府にも仕え、幕府時代以来の課題であった日本海軍創設に功があり、参議・海軍卿から元老院議員、枢密院顧問と明治中期まで政権の中枢に居た人物の中で、ほとんど唯一と言って良いほど、徳川慶喜をはじめ、実際に幕末の政治情勢を知る人物として、「語り部的存在」であった。

  その勝海舟が、薩長主体の明治政府へのやっかみから、土佐出身の、そして何よりも、自分の弟子の一人であった坂本龍馬をヒーローに担ぎ上げたのである。都合の良いことに、実際に龍馬を知っている人のほとんどは物故していたので…。龍馬の二大功績として知られる「薩長同盟」は実際には、同じ土佐藩の脱藩浪士で陸援隊を創った中岡慎太郎の仕事と言えるし、「大政奉還」の建白書を前藩主の松平容堂(山内豊信)に書かせたのは、土佐藩参政の後藤象二郎の仕事である。それを、勝海舟が「お前たちは知らないだろうが、これらの大事はすべて、(私の弟子である)土佐の一脱藩浪士の坂本龍馬がやったのだ…」という話を吹聴したのである。因みに、

  その後、まさに「皇国の興廃」をこの一戦に託した日露戦争開戦直前に、皇后美子(後の昭憲皇太后)の夢枕に白衣の武士が立ち、大日本帝国海軍の守護を誓ったが、その人物について宮内大臣田中光顕に下問したところ、元土佐勤王隊士であった田中が「坂本龍馬の霊でしょう」と答えた話が、戦意高揚のために新聞にリークされたことによって、一般人にも坂本龍馬の名が知られるようになった。田中は、龍馬・慎太郎暗殺時にいち早く現場に駆けつけ、陸援隊の副隊長に就任。維新政府では、元老院議員、初代総理大臣伊藤博文政権の内閣書記官長(現在の内閣官房長官)、警視総監、学習院長等の要職を歴任して宮内大臣になった人物である。日露戦争は、バルチック艦隊を撃破した日本の大勝利に終わり、維新直前に倒れた志士たちのために明治天皇が創建させた京都東山の霊山官祭招魂社(現在の京都霊山護国神社)に、皇后の意を受けて坂本龍馬も合祀されることになった。


▼ 龍馬のイメージは司馬遼太郎が創った

  そして、今日まで続く「龍馬ブーム」に決定打を与えたのは、1966年から5年間にわたって産経新聞紙上に連載された“国民的作家”司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』であることは言うまでもない。徳川慶喜・松平容堂(山内豊信)・勝海舟・西郷隆盛といった「歴史上の人物」――公的な資料が大量に残されている――と比べたら、姉のとめ、妻(?)のりょう、千葉道場の娘のさな等といった「登場人物」たちは、どのような漢字を当てるかすらハッキリしないほど“資料”がほとんどないのを良いことに、司馬遼太郎が創り出したキャラ設定を、その後のテレビドラマ等でも、ほぼ無批判に受け入れている。もちろん、それらの「創作された登場人物」の最たる者が坂本竜馬(註:司馬遼太郎作品では「龍馬」の代わりに「竜馬」と記述されている)自身である。

  司馬遼太郎という歴史小説作家の手に掛かると、彼の小説の中で描かれている世界が、あたかも「歴史上の事実(fact)」であったかのごとき錯覚を読者(視聴者)に与えてしまう。その点では、彼の右に出る作家は居ないであろう。山岡荘八の『徳川家康』や吉川英治の『宮本武蔵』と比べて見ても明らかであろう。山岡や吉川は、歴史上の人物の名前をそのまま小説のタイトルにしたにもかかわらず、読者はその主人公の言動を明らかに山岡荘八や吉川英治によって「創作されたキャラクター(fiction)」として読者が意識しているのに、何故だか、司馬遼太郎の作品の登場人物たちのキャラ設定は、脇役に至るまで「本当に彼(女)はそのように考えて行動したのだ」と思わせてしまうものがある。「歴史(history)」とは「彼(his)の物語(story)」だという神学的営みを地で行くようなところが司馬遼太郎にはある。たしかに、彼のペンネームからして中国史上最大の歴史家であった司馬遷から取られたものだろうから、彼自身、そういう思いがあったのであろう。その意味では、新約聖書における「イエス伝」(註:『マルコによる福音書』『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』等の共観福音書)と同じ発想であろう。作者の意図に添って、資料が取捨選択され、ストーリーが構築されていく…。


▼「大政奉還」は、いわば「出直し選挙」のようなもの

  歴史上の事実としての「大政奉還」が、前土佐藩主松平容堂(山内豊信)の建白に迫られて徳川慶喜が上表したのか、あるいは、もっと別の考えに基づいて行われたかどうかについては、諸説あるところである。何故なら、松平容堂が老中板倉勝静を通じて、幕府に提出した『大政奉還建白書』と、徳川慶喜が天皇に上奏した『大政奉還上奏文』の内容がかなり異なるからである。


『大政奉還建白書』
誠惶誠恐、謹で建言仕候。天下憂世の士、口を鎖して言はざるに馴れ候は誠に可懼の時に候。朝廷、幕府、公卿、ゥ侯、旨趣相違ふの状あるに似たり。誠可懼の至りに候。此懼は吾人の大患にして、彼の大幸也。彼の策於是乎成候と可謂候。如此事態に陥り候は、其責畢竟誰に可帰哉。併し既往の是非曲直を喋々弁難すと雖も何の益かあらむ。唯願ふは大活眼、大英断を以て天下万民と共に、一心協力、公明正大の道理に帰し、万世に亘って不恥、万国に臨て不愧の大根底を建てざるべからず。此旨趣、前月上京の砌にも追々建白仕候心得に御座候得共、何分阻隔の筋のみ有之、其内不図も旧疾再発仕、不得止帰国仕候。以来、起居動作とも不随意の事に成至、再上の儀暫時相調不申候ば、誠に残憾の次第にて、只管此事のみ日夜焦慮仕り罷在候。因て思慮の趣、一々家来共を以て言上仕候。唯幾重にも公明正大の道理に帰し、天下万民と共に、皇国数百年の国体を一変し、至誠を以て万民に接し、王政復古の業を建てざるべからざるの大機会と奉存候。猶又別紙御細覧被仰付度、懇々の情難黙止泣血流涕の至に不堪候。
松平容堂 慶応三丁卯年九月 

『大政奉還上奏文』
十月十四日徳川慶喜奏聞
臣慶喜、謹んで皇国時運の沿革を考へ候に、昔、王綱紐を解き、相家権を執り、保平の乱、政権武門に移りてより、祖宗に至り、更に寵眷を蒙り、二百余年子孫相承、臣其の職を奉ずと雖も、政刑当を失ふこと少なからず、今日の形勢に至り候も、畢竟、薄徳の致す所、慚懼に堪へず候。況んや当今、外国の交際日に盛んなるにより、愈々朝権一途に出で申さず候ひては、綱紀立ち難く候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕り候得ば、必ず海外万国と並び立つ可く候ふ。臣慶喜、国家に尽くす所、是に過ぎずと存じ奉り候。去りながら、猶見込みの儀も之れ有り候得ば、申し聞く可き旨、諸侯へ相達し置き候。之れに依りて此の段、謹んで奏聞仕り候。以上

  この徳川慶喜の大政奉還上奏文を読んでも判るように、慶喜はいったん朝廷に政権を返上したとしても、保元・平治の乱より700年間にわたって政権は武家が担当していたのだから、実際に全国を統治し、諸外国と交渉する能力など皆無の朝廷は、慶喜に政権を再委任するであろうと思っていた。さすれば、同日、「倒幕」の偽密勅を準備していた薩長の倒幕の野望の大義名分をなくさせると同時に、政権の再委任によって、徳川政権の正統性が再確認されるからである。よく、議会と対立した地方の首長が辞任して「出直し選挙」に打って出て、そこで有権者の信任を得れば、議会が黙らざるを得ないというのと同じ論理である。したがって、慶喜は“大政”は奉還したにもかかわらず、“征夷大将軍”職は辞任していなかった。徳川将軍家一家で、全国の諸大名の総石高の約1/3あったわけであるから、まぎれもなく慶喜は列侯会議の「元首(Princeps)」になれたであろう。事実、その後も、大坂城において、仏公使ロッシュや英公使パークスなど6カ国の駐日公使が慶喜と度々会見していることからも、諸外国も徳川慶喜を日本の「元首」と認識していたのであろう。(因みに、大河ドラマ『龍馬伝』に登場する英公使パークスとその通辞の役者の話す英語が、思いっきり「アメリカ英語」なのには閉口させられる。独特なカメラアングルや逆光を意識したシーン等、NHKは同番組の制作にかなり気合いを入れているはずなのに、ここの詰めの甘さが惜しいかぎりである。)


▼ 近代的な国民国家を構想した徳川慶喜

  おそらく慶喜は、再度、朝廷から委任されるであろう“大君(Tycoon)”政権は、征夷大将軍よりもより権限の大きな、いわば“大統領”のような役職を想定していた。国際法学者で慶喜の顧問を務めていた西周に起草させた『議題草案』によると、天皇は現行憲法同様「象徴」とし、「元首」として諸外国に対して日本を代表する「大君」(徳川慶喜)が行政権のトップに。立法府である「議政院」は、諸侯(大名)で構成される上院(議長は大君が兼任)と各藩代表1名ずつによって構成される下院(解散権は大君が保持)の二院制の議会(註:当時、司法権は行政権に属すると一般認識されていた)。さらに、旗本を再編した国軍の統帥権は大君に属し、地方行政は従来通り各藩に委任するという、極めて近代的な国家像を徳川慶喜は考えていた。

  この徳川慶喜の構想がいかに近代的なものであったかは、明治維新で実際に構成された新政府が、形式上は「王制復古」という古色蒼然としたものであり、実態としては、「勝てば官軍」という暴力革命によって成立した薩長勢力による「野合政権」以外の何者でもなく、決して本来の「国民国家」の政体をなすものではなかったことからも明らかである。このような維新政府が、欧米列強から見ても「一人前の国民国家」と見なされるようになるのは、明治20年代の大日本帝国憲法の発布と帝国議会の開設を待たなければならない。したがって、坂本龍馬の手になる『船中八策』が、あたかもその後の日本の「国のかたち」を決めたかのように過大評価するのも間違いである。

  ところで、「国のかたち」と言えば、自分で言うのも恥ずかしいが、当『主幹の主観』サイトを初めて以来、私のテーマそのものであった。何度も、手を替え品を替えてこの問題について考えてきた。中でも、2000年6月、森喜朗総理の「神の国」発言を受けて、真正面から『この国のかたち』と題する作品を発表し、それを受けて、2003年8月には、時の自民党政調会長額賀福志郎氏の招きで、自民党本部において、日蓮の『立正安国論』を題材に『国際政治・社会における宗教の重要性』と題する講演を行ったことがあるくらいだ。

▼「くにのかたち」と菅直人

  しかし、私が小サイトで『この国のかたち』を発表したのと時を同じくして、『くにのかたち研究会』という政策集団を立ち上げた政治家が居る。その人こそ、現総理の菅直人である。当時、民主党の幹事長であった菅直人は、かつて社会民主連合の同志であった江田五月と共に同研究会を立ち上げた。その後、2009年秋に民主党が政権を奪取すると、衆議院議員35名、参議院議員16名の合計51名を抱える同会は、小沢一郎グループに次ぐ民主党内第2位の派閥として、大きな影響力を発揮した。事実、2010年6月、小沢グループと党内第3位の勢力であった鳩山由紀夫による政権が崩壊してからは、当然の如く、第2派閥の領袖として党代表に選出され、その結果、総理大臣にも指名された。

  私は、十年前に菅直人代議士が「くにのかたち研究会」を立ち上げたとき、国会議員の政策集団(要するに派閥)としては良いネーミングだと思った。何故なら、国会議員にとって最も肝心なのは、「国家観(国体)」だからである。しかし、それが単なるネーミングだけだったのは、尖閣事件に対する菅政権――なかんずく、仙谷由人官房長官――の対応を見て万人の知るところとなった。ハッキリ言って、この政権には日本の国益を守る意思も能力もない。だから、あのようなビデオが流出したのである。仙谷官房長官の言う「対中配慮」って何だったのであろう。総理も官房長官も国交大臣も皆、あのビデオ画像を見ていて、あのような国会答弁を行っていたとしたら、とんでもないことである。遠い南の海で、海賊紛いの連中と命懸けで戦っている現場の海上保安官からしたら、「自分たちが命懸けで取ってきた証拠映像を、中国のご機嫌取りの政府高官が握りつぶしやがった」と思うのも無理はない。これって、ほとんど、いじめで自殺者が出た学校の校長が、記者会見で「そのようなことが登校で起こっていたなんてまったく気が付きませんでした」と嘯くようなものである。尖閣事件についての拙見については、『世界にひとつだけの華:尖閣事件考』をご一読いただきたい。

  こんなことだから、ロシアからも足下を見られるのである。しかも、その張本人の胡錦涛中華人民共和国主席も、メドベージェフロシア連邦大統領も、何喰わぬ顔をして、横浜で開催されるAPEC首脳会議に参加するため来日するのである。おそらく、菅首相は、薄ら笑い浮かべながら、中露首脳と握手を交わすのであろう。せっかく、二十数カ国の首脳が来日するのであるから、満座の前で、彼らに言葉による一撃を喰わせられるような人材がないものかと思っているのは、私だけではないであろう。それもこれも、元はと言えば、昨年来の鳩山政権による普天間移設問題の迷走によって日米同盟の基軸が揺らいだことに、中露両国がつけ込んできたからであって、最も罪が重いのは鳩山由紀夫前首相である。こんなことを続けていたら、国際的には取るに足らない北朝鮮まで調子に乗って何かを仕掛けて来る不測の事態まで考えられる。


▼ 一日も早い「大政奉還」を…

  私は、何も「日米安保」信奉者ではない。しかし、もし、日本が日米安保の機能を弱めたい――つまり、もっと自主外交を進めたい――と思うのであれば、防衛費を現在の10倍くらいにしなければならない――つまり、増税を覚悟しなければならない――であろう。その上、選択徴兵制度を導入しなければならないであろう。民主党政権や反「日米安保」論者にそれだけの覚悟はあるかが問題である。しかし、そのことは何もデメリットばかりではない。というよりは、以下の2点において大いにメリットがある。

  まず、選択徴兵制(註:私が考える選択徴兵制の「選択肢」については、いずれあらためて論実事にする)を導入することによって、若者の失業率を下げることができる。“超氷河期”と言われる新卒者の就職難も、片っ端から自衛隊が隊員として採用したら、全員就職することができる。おまけに、彼(女)らは所得税も年金もキッチリ支払う(給料天引き)ことになるので、社会人生活の第一歩から“お荷物”にならなくて済む。しかも、自衛隊において各種の技術を修得でき、職業訓練にもなる。

  次に、軍事力の整備は、その性質上、さまざまな武器の開発や製造は、国内で行うことになるので、優秀な日本の製造業の海外移転を防ぎ、国内産業の空洞化を抑制する。つまり、このことによって生み出された内需が、町工場などの中小・零細企業にまで波及し、ひいては中高年の雇用も増大させる。このことも、現在では1/4の企業しか納めていないと言われる法人税の税収も増加させ、もちろん、工場労働者から納付される所得税も増える。

  このように、現在の民主党政権の国家運営は、国家安全保障上、危なっかしくて見ていられない。しかも、野党時代には、「政府に対する情報公開」をあれほど声高に叫んでいたのに、今回の尖閣事件等への対応を見ても判るように、自民党政権の頃よりも遥かに情報公開に消極的である。今回の「衝突ビデオ」の内容を秘匿しておくことに何に意味があったのであろう。「事業仕分け」も、昨秋は、政権交代によって、前政権である自民党政権が作った予算を改変する必要があったから、行うことにも意味はあったかもしれないが、今秋の「事業仕分け」は、自分たち民主党政権が作った予算を自分たちで仕分けするという痴話げんかのような内容で、そもそも、行為として矛盾している。これらのすべての現状に鑑み、今、一番確実に言えることは、外圧と既成の国内秩序の崩壊に際に、140年前に徳川慶喜が行ったように、民主党政権もさっさと「大政奉還」すべきであると思う。そして、自民党も民主党もいったん解体して、全く新しい観点から、この国の政治のあり方を再構築すべき段階に来ているのではないだろうか…。

 

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