キリスト教が日本宗教文化に与えた影響
01年10月01日


レルネット主幹 三宅善信


 米国の同時多発テロやそれに対する米国の対応などにつき、存念を6作品(『そして、バベルの塔は崩壊した』、『世界は日本に何を期待しているのか?』、『鎮魂:日本型危機管理術』、『猿以下の惑星』、『主権国家対NGOの戦争』、『スタン・ハンセン:中央アジア回廊』)に込めた。過去4年間にわたって、『主幹の主観』シリーズをお読みいただいていた読者の皆さまには、今回のイスラム原理主義勢力の手によると見られるテロ事件とそれに対するアメリカの反応は、ある意味で想定された結果であったと思う。今後も随時にこの課題について考えてゆきたいが、"通常"の「主幹の主観」の課題にも取り組んでゆきたい。


▼歴史の節目でキリスト教が影響

 日本にキリスト教が伝わったのは、大きく分けて歴史上3つの機会があった。もちろん、奈良時代に、大唐の都長安から、ローマ帝国で"異端"とされたネストリウス派のキリスト教(景教)が伝わり、日本の密教等に影響を与えたという説もあるが、これについては、どれほど具体的な影響があったのかということが実証されにくいので、この場合は除く。明らかに大きな影響を与えた最初の機会というのは、16世紀中頃の戦国時代に、鉄砲と共に伝来し、その後、信長・秀吉・家康らによる天下統一事業によって戦国時代に終止符が打たれ、強力な中央集権政権が成立したという時点に、主にポルトガルやイスパニアを通じて、ローマカトリック教会が伝来したということである。いわゆる、切支丹(キリシタン)で、後に豊臣秀吉、徳川家康によって、これが禁教とされ、徳川時代の2世紀半を通じて、キリスト教が禁じられたということ。

 2番目は、幕末維新期に欧米列強に対して国を開き(開かされ)、特に明治維新以降、米・英・独等の影響によって、数多くのプロテスタント系のキリスト教が日本に伝来した。これらのキリスト教は、特に教育の世界において大きな文化的影響を与えた。俗に「ミッション系」と言われる同志社や関西学院、青山学院、立教……。カトリック系では上智・南山等、数多くの教育機関が創られた。当然、明治政府としては、「欧米列強に追いつけ(文明開化・富国強兵)」というのが国家の目標であったから、ということは、和漢の伝統的な学問を捨てて、欧米式の学問・技術を取り入れるということであったので、当然、その付属物として、キリスト教というものが取り入れられた。

 3番目の機会というのは、これは前二者とは意味が違うが、特に1945年の日本の敗戦後6年間、連合国(米国)軍によって「占領」されたことによって、アメリカ文化という形で大きく伝わった。しかし、前二者と異なって、この際はほとんど"宗教"という感じでなく、たとえばクリスマスであるとか、その他のいわゆる宗族的な行事が、「豊かなアメリカの物質文明」の象徴として、一般市民の間に、キリスト教として意識されるまでもなく行なわれるようになったことである。これらの歴史上の3回の機会に、日本がキリスト教の影響を大きく受けたということは誰でも分かるのであるが、実は、日本の宗教文化に対しても、キリスト教は大きな影響を与えていることが案外知られていない。しかも、このことが、先に述べたミッション系の学校であったり、クリスマスといったように、誰でも、このことを聞いただけで「キリスト教の影響である」と認識するのとは異なり、うっかりすると、キリスト教の影響であると気付かないまま、これが日本の伝統的な文化であり、宗教的行為であると思い込んでしまっている人が多いという点に、大きな問題がある。


▼仏式の葬式はキリスト教の影響で…

 最も有名な例は、千利休によって大成された茶道の諸所作が、カトリックの聖餐式(ミサ)の動作から、大いに茶道のお手前に取り入れられたということが有名である。あの、「ひとつの茶碗に入った飲み物をその場にいる人で回し飲みをする」というのは、まさしく、聖餐式の聖杯の中で、"キリストの血"に変えられた(と信仰的には信じられている)赤葡萄酒を、会衆で回し飲みをするという行為。また、その聖杯の縁に布を被せて、拭いたり、回したりと、茶道の所作と共通するものが多いことは、かなり知られている。しかし、私がここで言いたいのは、それらとは全く別の、日本の宗教のほとんど独自のものであると思われているものの、実は、多くのものがキリスト教の影響があるということである。

 まず、仏教における葬式…。これは、意外なことかも知れないが、これは全面的に切支丹の影響である。日本における仏教とは、もともとは、奈良時代の鎮護国家といった趣旨の仏教から、平安時代の主に貴族を対象にした法華や浄土の思想。そして、いわゆる法然・親鸞・日蓮・道元・栄西といった鎌倉新仏教によって、庶民のレベルにまで仏教思想が広がったが、そのいずれの仏教も、「亡くなった人の葬儀を行なう」ということは主眼としていなかった。人類始まって以来、亡くなった人を弔うという行為(「死」の意味づけ)は、どの文化においても行なわれているのであるが、これが、現代の日本のように、いわば僧侶の専売特許のような形で仏教僧が葬儀に介在するようになったのは、実はキリスト教の影響である。それまでは、身内であるとか、近所のコミュニティーの中で葬儀が行なわれていて、寺院は葬儀とは無縁の存在であった。

 しかし、16世紀の中頃にポルトガルからキリスト教(イエズス会)が伝わり、日本国内で相当多くの信者を獲得するに至ると、「通過儀礼(rite of passage)」すなわち人生の諸段階における加入儀礼を豊富に備えたキリスト教の影響というのは、思いもかけない方向に展開した。つまり、切支丹は信徒が亡くなる時に、伴天連(バテレン=神父)が「終油の秘跡」を行ない、そして、宗教家が全面的に介在した形での葬儀が行なわれるようになったのである。これを見て、危機感を抱いたか、あるいは「これは使える!」と思ったか知らないが、日本の仏教界も宗教家が介在する葬儀というものを創り出した。それまでは、あくまでも仏教の諸宗派は「個人の悟り」であるとか「浄土への救い」であるとか、そういうことを説いたのであって、儀式執行者としての「弔い」ということには、あまり関心を持たなかったらしい(註:怨霊を鎮めるための祈祷等は行われたが)。而して、500年近く経つ現在においても、日本では、葬式と言えば、お坊さんをイメージするほど、仏教と葬式は深く関わるようになっていった。


▼「神前」結婚もキリスト教からの拝借物

 次に、(神道式の)神前結婚である。10年ほど前に、皇太子殿下と雅子妃殿下の成婚の儀が行なわれ、皇居の賢所に衣冠束帯姿の皇太子殿下と十二単をまとわれた雅子妃殿下が、静々と入って行かれるところのテレビ中継画面を記憶されている方も多いであろう。あの行事は、何かしら『古事記』『日本書紀』の世界に直接繋がるような、古式ゆかしい神道の伝統的儀礼だと思っている人も多いに違いない。あるいは、庶民のレベルでも、明治神宮や平安神宮をはじめ、多くの神社に併置されている結婚式場の会館で結婚式を挙げたり、あるいはホテルや玉姫殿のような結婚式会館業者の神前結婚の式場で、どこかの地元の神社から神主さんと巫女さんを招いて、神前結婚を挙げた人は多いだろう。恭しくお祓いをし、祝詞(のりと)を詠み、そして玉串を奉奠(ほうてん)する。しかも、司式する神主さんの服装は極めて伝統的な装束である。誰もが"伝統行事"だと思っている。しかし、神前結婚が行なわれるようになったのは、実は、明治後期の話である。

 それより以前は、「嫁入り」と言って、新婦が新郎の家に嫁入り道具と共に「移動する」ことが、いわば儀礼的な結婚式であった。そして、農村部であれば庄屋であるとか、都市部であれば名主といった、いわば、コミュニティーの年寄(長老)のような人が立会いになり、三三九度の杯を交したものであるが、ここにはいわゆる「職業的宗教家の介在」ということが行なわれていない。もちろん、江戸時代切支丹でないことを証明するために、全ての日本人はどこかの仏教寺院の檀家として登録されていなければならないという「宗門人別制度」が徹底されていたので、結婚するということは、すなわち、嫁ぎ先の家の宗教である、ある特定の仏教宗派のお寺の檀徒に連なるということを意味した。しかし、そのことは単なる「戸籍」事務の処理であるから僧侶が宗教的に結婚に介在したということとは別である。

 明治維新以後、欧米列強に追いつくために数々の技術を取り入れ、あるいは日本の伝統的な習俗を味噌糞に「旧制(アンシャンレジーム)」であるとして、これを「陋習(ろうしゅう)打破」として捨て去った明治の文化であるが、新たに、近代国民国家の統一原理として創り出した天皇制や国家神道というシステムを運用する上で、当時の嘉仁親王(後の大正天皇)の婚礼の儀式を行なわなければならないという事態が生じた。天皇誕生日である天長節も、欧州列強の国王の誕生日がそれぞれの国で国家行事として祝われていることにちなんで、日本でも採用されたのと同じように、大日本帝国の後継者である、後の大正天皇の婚礼を国家的儀礼として行なうことに明治政府は苦心した。皆さんも、20年程前にロンドンのセントポール大聖堂で行なわれたチャールズ皇太子とダイアナ妃の豪華絢爛なロイヤルウエディングを記憶されているであろう。当時の欧州列強の各国室も同じような式を挙げた。挙式後のパレードなんか完全に、欧州のそれの真似だ。

 そこで、それを参考にして、しかも日本の伝統である衣冠束帯や、うすべらかしに十二単という装束をまとい、そして、『古事記』における伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)の結婚の場面を参考にして、明治時代に人為的に創作されたのがいわゆる神前結婚である。この神前結婚は評判を呼び、これに習い、これを簡略化した形で、神社で行なう神前結婚が徐々に庶民に取り入れられていったのである。これが今日、神道の神主が執り行なう神前結婚である。しかし、これも、元はと言えば、欧米のキリスト教における結婚式の在り方に大いに触発されて、これに対抗する上で、表面上の儀礼だけ神道形式を採用して行なわれた、全く新しく近代になって創られたものであり、古式ゆかしい日本の伝統行事とは異質のものである。


▼檀家制度は教区制の焼き直し

 葬式と結婚式という人生の通過儀礼の最も重要なものが、実はキリスト教の影響を受けて形成されていたのである。さらに、意外なほどキリスト教の影響を受けていたという宗教上の制度がもうひとつある。実は、江戸時代に切支丹邪宗門でないということを確認するために、国民を全てそれぞれの町々、村々にある仏教寺院の檀家にするという、いわゆる寺請制度が完備され、後の"葬式仏教"の元になるのだが、これも意外なことに、キリスト教の制度の借用であると考えられる。ヨーロッパにおいては、キリスト教は完全に支配的な宗教であった。宗教改革後のドイツにおける30年戦争を見てもわかるように、それぞれの封建領主は、自らの属するキリスト教の宗派を一種の基準にして神聖ローマ帝国内での戦争を戦ったのである。

 教会の管轄区域は「parish(教区)」と呼ばれる地域に分割されていた。今でもヨーロッパに行けば、その跡がハッキリと見られる。もちろんカトリック教会は、教皇から任命された世界中でそれぞれの教区を司る責任者=司教(bishop)というのがおり、たとえば大阪大司教であるとか京都司教であるというふうに管轄圏が分かれているが、プロテスタントにおいても、英国の国教会やドイツのルター派教会のように、国家権力と密接に繋がった教会では、国中のあらゆる地域、村々を教区に分け、国民をその教区のある教会のメンバー(檀徒)としたのである。スウェーデンなどは1999年末まで、子供が生まれた時の戸籍は、市役所ではなく教区の教会に届けることになっていた。いわゆるクリスチャンネームを貰わなければ、スウェーデン国民として登録されないのである。

 国教会制度を採る国では、ほとんどこういうシステムを行なわれてきた。カトリックとプロテスタント複数の宗派が混在するドイツにおいては、現在でも"教会税"という制度が採用されている。日本では考えられないことだが、国が徴取する所得税とともに、教会税(所得の約10分の1)を併せて徴取し、その特定の町における宗派別の人口比率に応じて、各教会に配分するのである。政教分離の徹底した日本――靖国神社に参拝した総理大臣の玉串料を、総理大臣のポケットマネーで払ったか、国の費用で払ったかが裁判で問われるような風土の日本――では信じられないことであるが、国家あるいは地方自治体が、教会の収入を税金という形で国民から徴取し、教会に渡しているのである。ロシアにおいても、70年間の社会主義政権が崩壊した後、キリスト教(この場合はロシア正教会)の復権が著しく、最近では、ロシアもドイツに習って、教会税の制度を導入してはどうかという議論さえ起きているほどである。


▼ 夫婦同姓(「家」制度)はキリスト教の制度

 話が少し横道に逸れたが、これほど、ヨーロッパにおける封建統治機構(現代ではある意味ではそうなのであるが)と、教会制度との結びつきは強い。戦国時代を終わらせ、統一政権を成し遂げた信長や秀吉や家康が、このことに目を付けなかったはずはない。当時、多くの伴天連が日本に滞在し、また、彼らの中には、信長・秀吉・家康といった日本の支配者の近くで、軍事顧問として、あるいは外交顧問として活躍した人も少なくないであろう。それらの切支丹から、欧州の政治制度(統治システム)をつぶさに聞いていたであろう日本の支配者が、欧州のこのparish(教区)の制度を取り入れなかったはずがない。それを見事に取り入れたのが、しかも、キリスト教の理念を排除し、制度だけを寸借して取り入れたのが徳川家康である。

 すなわち、徳川幕府における寺請制度(檀家制度)である。国民は全て、出生時に自分の所属する区域の檀那寺に行き、宗門人別帳に名前を記してもらわなければ、国民として登録されたことにならない。そして、死亡したら、寺で僧侶によって戒名をもらい、寺の過去帳に名前を連ねてもらう。これはまさに、現在の区役所(市町村役場)の戸籍課がしている行為と同じではないか。現在、「檀家仏教」、「葬式仏教」と揶揄される日本仏教であるが、実は、葬式も切支丹の影響、そして檀家制度も切支丹の大きな影響のもとで、日本の近世の政治と大きく関わって形成されていった制度なのである。

 さらに、結婚した夫婦が同じ姓を名乗る(「家」制度)のも、実は明治以降のキリスト教の影響である。明治以前は、武士とか名字帯刀を許された一部の人々を除いては、日本人は一般に「姓」を持たなかったが、明治近代国民国家が成立する時に、国民皆教育、国民皆兵を実施するためにも、国民全てに「姓」を付ける必要が生じた。その時に「家」制度が確立し、結婚した男女は同じ姓を名乗らなければならなくなった。墓石に「○○家累代之墓」と記されるようになったのも、この時である。それ以前は個人墓であった。歴史上の人物でも、源頼朝の夫人は結婚した後も北条政子であったし、足利義政の夫人は日野富子というように、結婚しても女性が姓を変えるということはなかった。それが、明治以降、結婚した男女は同じ姓を名乗るという制度になったのであるが、これは、明らかに欧米の風習(いわゆるFamily Name)を取り入れた結果である。今でも中国や韓国では、夫婦は別姓である。現在、「家」制度を日本独特の封建的な制度と言って批判し、男女別姓を主張するグループがあるが、これなど歴史の事実を知らないも甚だしい。封建制度下においては、男女は別姓であったのである。明治の近代制度において、男女が同姓になったのである。

 このように、日本においても、神道や仏教といった典型的な日本的なものと思われたいろいろな習俗や、生活に密接に関連した実に多くのことがキリスト教の影響を受けてきたということをお判りいただけであろうか。


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