連合は何をしてきた?

 09年01月16日



レルネット主幹 三宅善信


▼ 連合は人事院か?

 「1月15日、東京大手町の経団連会館において、御手洗冨士夫日本経団連会長と高木剛連合会長とがトップ会談し、2009年度の春闘が幕を開けた」と各紙が報じた。さらに、「雇用確保へ労使一丸。共同宣言発表」という誰もが予想した見出しも踊った。しかし、それらの記事の中で私が一番驚いたのは、「連合側が8年ぶりのベア(ベースアップ=賃上げ)要求を掲げたのに対して、日本経団連側は否定的な見解を崩さなかった」という部分である。

  何故、私がこの部分に驚いたかというと、理由は2つある。まず、アメリカ発の金融恐慌に端を発して昨秋から全世界で急激に進行した景気の悪化は、世界中の多くの会社や国家経済に破綻をもたらせた。このような企業にとって、「生きるか死ぬか」の瀬戸際状況の場面で「ベア要求」を出すことのセンスそのものである。しかも、その理由が「去年は消費者物価が高騰したから」だというのである。

  確かに、昨年(2008年)前半は、未曾有の原油高(註:最高値は、1バレル147ドル)に伴うガソリン代(光熱費・輸送燃費等)の高騰や、石油不足を補うために農産物をバイオ燃料へ転用したことによるトウモロコシやサトウキビ市況の高騰がもたらせた途上国での食糧不足等の理由で、長年デフレが続いた日本でも消費者物価が急騰した。「燃油サーチャージ」なる耳慣れない言葉も登場した。しかし、これらの一次産品価格の高騰も、秋以降の急激な景気の収縮期において、それ以上の速度で急落し、原油価格に至っては1バレル33ドルまで下落した。

  原油価格が高騰したのも、鉄鉱石や非鉄金属の価格が高騰したのも、昨年の今頃は、「これからは、中国やインドをはじめとする巨大な人口を抱える新興工業国が経済発展していくので、鉱業産品の価格は世界規模で恒常的に上昇する。その結果として、彼らの食生活が先進国並みに豊かになってゆくので(註:家畜は放牧ではなく穀物で飼育されるから)、穀物の価格も上昇の一途を辿る。その上、バイオ燃料への転用需要が発生するので、さらに高騰する」という論調がメディアや産業界で持て囃やされ、豪ドルなどの「一次産品輸出国」の通貨が最高値を更新し続けた。

  しかし、昨年秋の金融恐慌以後のこれらの国際価格の暴落が示すところは、「中国やインドの経済発展による潜在的需要」によって高騰していたのではなくて、国際投機マネーがそれぞれの市場を弄んでいただけ(=空需要)のことであったということである。なぜなら、たとえ不況になったとしても、中国やインドの巨大な人口が減少する訳でもなければ、食い扶持が減るわけでもないからである。

  だとすると、連合の主張するように、「2008年の消費者物価が高騰したから、実体経済がどうであろうと2009年の春闘では賃上げ要求をする」という論法であれば、おそらく2009年の消費者物価は経済恐慌によって下落するであろうから、「2010年の春闘では、賃下げ要求をしなければならない」ことになってしまう。しかし、こんなことはあり得ないであろう。そもそも、消費者物価の上下動にスライドして賃金を決めるなどという発想そのものが「人事院勧告」並みのお役所的発想で、救いがたいものがある。もしくは、見かけ上の給与が上がらないときは、労働時間の短縮を要求して「時間単価」を上げるという方法を取る。


▼ ベルリンの壁崩壊と連合の誕生

  しかしこれも、休日だらけの連合加盟の労働組合員に、これ以上休日を増やしようがない(=労働時間短縮のしようがない)から、今回のような事態には、雇用を守るための「ワークシェアリング」という手段の取りようもない。過去30年間にわたって、「週118時間勤務(=1日16時間勤務)」が常態であった私からすれば、“甘ちゃん”も良いところである。国勢調査表でも、「直前の1週間の労働時間」を問う設問欄に、最大「99時間」までしか記入できないようになっていること自体、現実を正しく反映していない。厚生労働省も大企業も連合も、個人事業主や零細企業で働く人々のことなんかはじめから、「相手にしていない」のである。

  そもそも、「連合」に加盟している各労働組合(註:各企業の労働組合が直接、「連合」に加盟しているのではなく、電機連合・自動車総連・ゼンセン同盟・私鉄総連をはじめとする民間系と、自治労・日教組・NHK労連をはじめとする官公労系の「単産(単位産業)別」労組を通じて加盟しているので、「連合」とはまさに、労働組合連合の連合体である。これを労組用語で「ナショナル・センター」と呼ぶ)のほとんどは、「親方日の丸」の官公労か、民間といっても、一部上場の大企業の労働組合である。だから、春闘で交渉する相手も、「日本経団連」なのである。

 「連合」が結成されたのは、「ベルリンの壁」が突如崩壊した1989年11月9日から十日しか経っていない11月19日のことであった。ゴルバチョフの登場によって、米ソの冷戦は終結し、東欧の社会主義政権が次々と崩壊していった時代情勢の中にあって、日本の労働組合運動も、日本社会党系(左派)の「総評」と、民社党系(右派)の「同盟」という硬直した労働界の内輪もめ構造が通用しなくなって、この年に再編されたのである。因みに、結成時の連合の勢力は、78単産800万人の規模を誇る労働界のジャイアントとなったので、当の組合員だけでなく、経済界も政界もマスコミも「一目置く存在」であると思った。当然、日本社会党と民社党の合同を視野に置いたものであった。

  ところが、政界のほうはその後、一気に流動化し、1993年、宮沢喜一政権が内閣不信任案の可決によって崩壊し、日本社会党・新生党・公明党・日本新党・民社党・新党さきがけ・民主改革連合・社会民主連合の8党相乗りの非自民細川護煕政権が誕生したが、9カ月で政権を放り出した。それに続く羽田孜内閣もわずか2カ月で崩壊し、1994年、社会党の村山富市を首班に担ぐという禁じ手で自民党が与党に返り咲くなど、まさに「五胡十六国」のごとく、政界は麻の糸の如く乱れた。この間に興亡した政党の名前を何も見ずに正確に言える人は、たとえ国会議員であっても、恐らく居ないであろう。この状態が解消されるは、1998年の新「民主党」結成まで待たなければならない。因みに、新「民主党」が結成される直前の院内会派の名称は「民主友愛太陽国民連合」であった。その民主党が、結成11年にして、やっと政権に手が届くところまで来たのである。


▼ 小泉構造改革を支援した連合の労使協調路線

  このような迷走を経て、連合という労働界も、また、その政界におけるカウンターパートナーである民主党も、一応の「統一」という形式を十年間維持することができたのである。連合結成以後の二十年間の日本は、前半の十年間はまさに「バブル経済崩壊」に伴う「失われた十年」であり、1997年の金融危機をもってクライマックスを迎えた。後半の十年間は、「金融資本主義」の小泉純一郎政権の5年半の間に、日本の戦後の発展を支えた数々の「古き良き伝統」は、ことごとく破壊し尽くされた。私は、『主幹の主観』コーナーにおいて、小泉政権成立後の早い時点(2002年10月25日)から『寛政の改革と小泉内閣「竹中改革」のゆくえ』において小泉批判を行って以来、一貫して(註:『小泉首相の次なる手は、皇室の政治利用』『一言主神(ヒトコトヌシ)の末路は?』『郵政暴れん坊将軍に一太刀を』『ホリエモンと一夫多妻男と皇室典範』『「神殺し」の国ニッポン』『竹の園生の末葉まで』『小泉政権は日本のチェルノブイリ』等の作品をご一読いただきたい)小泉内閣の「構造改革路線」を批判してきたことは、読者諸氏もよくご存じであろう。

  ところが、この間の日本の労働運動というものは、「万年野党」の社会党時代とは意識が変わったのか、「政権入り」という欲が見えてきたのか、どんどんと「もの分かりの良い」労働組合に変質していった。いわば、「労使協調路線」である。小泉構造改革の“成果”によって、日本の経済は「いざなぎ景気」を超す戦後最長の経済成長を遂げたことになっている。この景気拡大がインチキ千万であったことは、『神道フォーラム』誌に連載されている拙エッセイ集『神道DNA』で2007年3月に上梓された『国常立景気?』で述べたとおりである。この間、連合は「いざなぎ景気」を超える戦後最長の景気拡大期に、資本側と馴れ合いのごとき関係を築いて、賃上げ要求をしてこなかったのである。それを誤魔化すために、「労働時間の短縮(=見かけ上は「時給のアップ」になる)」等を行ってきたのである。一層のこと、組合費でドンドンと会社の株式を購入して、労働組合が大株主になれば良い。さすれば、「会社の利害=労組の利害」となって、労使協調路線は理想的な状態となるであろう。

  しかし、実際には、この数年間の経済的繁栄は、企業側からすれば、正規社員の割合を減らして、非正規社員(期間労働者・派遣労働者・パート労働者等)を増やすことによって、労働者一人当たりの賃金を抑える(註:本来は「同一労働同一賃金」であるはずであるから、正規・非正規の区別にかかわらず、同じ仕事に対しては同じ賃金を支払わなければならないはずである)ことによって実現したものである。しかも、今回のような急激な国際経済情勢の変化に直面しても、非正規社員たちを「雇用の調整弁」として解雇すれば、容易に人件費コストを削減でき、かつ、余計な生産によって在庫が拡大してしまうというリスクも回避することができる。企業の経営者にとっては万々歳の制度である。


▼ 連合は非正規社員のことなんか考えていない

  ただし、「雇い止め」や「派遣切り」にあった非正規社員たちが、自動車メーカーや家電メーカーに文句を言っていくのは、お気の毒ではあるが、ほとんどの場合、お門違いである。なぜなら、「雇い止め」された人々は、予め定められていた雇用契約期間の満了に伴い「これ以上、雇用契約を延長しない」というタイミングに運悪く当たってしまったからであり、また、「派遣社員」については、彼らが雇用契約を結んだ相手は、派遣先もメーカーではなく、派遣元の「口入れ屋(人材派遣会社)」だからである。文句を言うなら、メーカーからの「派遣切り」要請を唯々諾々と受け入れた派遣元へ言うべきである。というか、そのような無責任な派遣元と安易な契約(「働きたいときに働き、休みたいときに休めるように」というような主旨)を結んだ派遣労働者自身にも非がある。

  もちろん、今回の「非正規雇用切り」問題は、このような派遣労働者を大量に受け入れていた正規労働者の組合の“総本山”である連合も同罪と言えよう。何故なら、彼らは、常に「優遇された」正規社員(公務員・大企業の社員)である自分たちの待遇改善だけに関心を向け、それ以外のことと言えば、「憲法九条」の如き、本来の労働問題とは関係ない問題にそのエネルギーを注いできたからである。彼らは、非正規社員のことなんぞ、気にも留めていなかったのであろう。また、同じ正規雇用の労働者でも、公務員や大企業に勤める彼らから見れば“負け組”(学生時代に大変な努力をした自分たちは一流大学を出て一流企業に就職したが、彼らは、学生時代の努力が足らなかったから三流大学とか高校しか卒業できなかった結果として、中小・零細企業にしか就職できなかったから、生涯賃金が少ないのは当然である、という考え方)である中小・零細企業に働く労働者たちのことも顧みるつもりなんぞはじめからなかったのであろう。その結果が、昨日の日本経団連と連合のトップ会談にも現れている。

  すでに、昨年末から大量の非正規労働者が解雇され路頭に迷っている。また、これからは、大量解雇の嵐は正規社員の上にも吹き荒れるであろう。大型倒産も出てくるであろう。問題は、そのような事態に陥ったときの労働者たちのビヘイビアである。もし、そのような決定が理不尽であると思うのであれば、彼らは一命を賭してでも戦う気概があるのだろうか? さもなくば、今回の春闘における「賃上げ」要求も、単なる“条件闘争”と雇用者側から軽く見られるであろう。本業とは関係のないマネーゲームに失敗した経営者が、借金返済のために第三者に売却した事業所などに勤務していた労働者が、突然、施設の引き渡しと立ち退きを求められるケースも出てくるであろう。そんな時、彼らは本気で戦えるのであろうか?


▼「城を枕に討ち死に」の覚悟が人を動かす

  私は最近、片岡千恵蔵と市川右太衛門の「両御大」が共演(他にも、中村錦之助・東千代之助・大川橋蔵・月形龍之介・大友柳太朗・大河内傳次郎・近衛十四郎・山形勲他の超豪華キャスト)した1961年公開の東映創立十周年記念映画『赤穂浪士』(大佛次郎原作)を観た。脂の乗りきった往年の名優千恵蔵と右太衛門が、立場上、敵同士となった赤穂藩浅野家家老大石内蔵助と米沢藩上杉家家老千坂兵部の役を演じる。中でも、後半の討ち入りに意を決して大石一行が京から江戸へ下向する途中に、東海道のとある陣屋の廊下で二人がすれ違うシーンがある。両御大がワンフレームの中に収まって約3分間、一言も科白を発せずに表情のみで演じきるシーンが圧巻である。また、播州浅野家改易の後、「内蔵助の元に集まった浪士がわずか60名しかいない」との隠密の報告を持って「だから赤穂浪士たちは大それたことはできないであろう」と、千坂兵部のもとへ報告に来た上杉家家臣に対して、兵部は「60人がそれぞれ自らのいのちを的にして、吉良様を討ちに来たら防ぎきることはできないであろう」と戒めるシーンがある。

  まったくそのとおりである。自分が長年、誠心誠意をもって尽くしてきたと思える会社を、「理不尽にも解雇された」と思ったならば、なぜ、会社の経営者や経済団体の幹部に対して、自らのいのちを的にして抗議行動をしないのか? いくらでも“天誅”を加えることができるはずである。個人レベルではなく、もっと大量に解雇され、アパートの立ち退きを命じられたら、なぜ、籠城して城を枕に討ち死にしようとしないのか? なぜ、数百万人もの組合員がいるのなら、連日、数万人ものデモを組織して、国会や経団連会館、あるいは大量解雇をしている大企業の本社に抗議デモをかけて、そういった会社の社会的イメージを失墜させるという方法もあると思うのに…。数万人規模のデモと言っても、数百万人の組合員がいるのであるから、一人当たり年に三回デモに参加すればよいのであるから、それぐらいの自己犠牲を払ってしかるべきだと思う。

  要は、“覚悟”の問題である。相手と交渉するときに、あるいは、社会一般に自説を訴える時に、こちらの覚悟の程を見透かされてしまったら、交渉にもならないし、インパクトも与えることができないのは、古今東西を問わず言えることである。それどころか、彼らの多くは、そういった努力をしようとしない。やはり“甘え”があるのだろうか? そういえば、職種によっては、有効求人倍率が2〜3倍といった「人手不足」の業種はいくらでもあるのに、そういう3Kの職場へは行こうとしないで、派遣テント村に群がるだけというのも頂けない。私の周りには、今でも人手不足の職場がいくらでもある。

  また、デモをかけたり、籠城したりといった荒々しい手法を取らなくとも、解雇された人々は、当該企業を糾弾するために、インターネットを通じた“攻撃”(相手の社会的信用を落とすための書き込みや、不買運動の呼びかけ)をすることもできるし、一斉に会社に抗議の電話やFAXを送りつけたり、経営者の行動を監視してこれを逐一公表してプレッシャーをかけるとか、いくらでも方法はある。某大教団なんかはいつもこういう手を使って、自分たちに都合の悪い発言を封殺しようとしているではないか? お行儀の良い態度とは言えないが、「百年に一度の経済危機」に際して、これくらいのことはやるという覚悟を示さないと、いつまで経っても、国会同様「ごっこ遊び」の労働組合のような気がする。


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