永遠の生を手に入れたサダム・フセイン
06年12月30日



レルネット主幹 三宅善信


▼明白な『ジュネーブ条約』違反

  2006年12月30日は、私にとって忘れられない日になってしまった。イラク共和国の前大統領サダム・フセイン(Saddam Hussein)氏が、マリキ政権が行ったでっち上げ裁判による不当判決の僅か四日後に処刑されてしまった。あまりの性急な展開に、ブッシュ政権は「イラク政府独自の判断だった」と責任回避の言い訳をしたが、一週間後に始まる合衆国の連邦議会を前に、イラク戦争で「良いところなし」のブッシュ政権を支援(貸しを作る)するためのマリキ政権のサービスであると言われてもいたしかたあるまい。「現場の宗教家」として、死ぬほど忙しい年末年始の時期ではあるが、いくら忙しくともまだ死んでいない私は、殺されたフセイン氏へのレクイエムの意味も込めて、ここは一筆啓上せざるを得ないだろう。


フセイン最期の日

今から三年前の2003年12月14日、バグダッド陥落後、国内を逃亡中のフセイン大統領を捕縛した(公表した)後、アメリカ政府はフセイン氏を「戦争捕虜である」という名目で、イラク国内某所の米軍基地内へと囲い込んだ。しかも、アメリカを中心とする「有志連合」(註:この戦争は、国連安保理のお墨付きを得ていない「私闘」である)と、イラク政府との間で、戦争の国際法的終結を意味する「講和条約」が結ばれていないということは、法的にはまだ「戦争状態」であるということである。それ故、米兵たちがイラク国内を勝手に彷徨(うろつ)き回って、捜査令状もなしにイラクの一般市民を逮捕したり、刃向かう者を射殺したりできるのである。まさに「戦時」だから通る理屈で、「平時」なら立派な犯罪行為だし、そもそもこのような案件は「警察マター」で、軍隊の出る幕ではない。

であるとしたら、フセイン氏に対して「死刑判決」を出しているマリキ政権に対して、自らが「保護(註:逮捕拘束という行為は、ある意味では捕虜・被告が私的な復讐の対象とならないように、公権力によって保護されている状態とも言える)」していたはずのフセイン氏を差し出す行為は、みすみす生命が脅かされることが明白な相手に「戦争捕虜」を差し出すことであり、戦時の捕虜の取り扱い方法を規定した『ジュネーブ条約』の精神に反している。仮に、戦勝国たるアメリカ軍がフセイン氏を「戦犯」という形で裁いて「死刑」判決を出した場合でも、『ジュネーブ条約』第101条にあるように、判決後6カ月以内は「執行」してはいけないことになっている。

にもかかわらず、21世紀入ってからブッシュ政権が行った2度の戦争はいずれも、捕虜の取り扱い方法については、キューバのグアンタナモ米軍基地内に裁判を受けることを許されずに数年間留置されて(当然、ジュネーブ条約の「違反行為」も行われている)いるアフガン戦争の捕虜や、イラクのアブグレイブ捕虜収容所(元刑務所)内での米軍関係者によるイラク人捕虜への拷問や虐待が問題視されているように、とてもとても「圧政国家の虐げられた人民を解放する」という表向きの大義名分とは別の原理で行われていることは明白である。私は、これまでにも、ブッシュ政権による2003年の3月イラク侵略戦争開戦以来、数多くの作品を発表して、問題提起を行ってきたが、ここではそれらの紹介だけに留めて、本日の結論を急ぐが、時間に余裕のある人は今一度読み直ししていただければ幸いである。

03年03月03日発表『桃太郎バグダッドへ征く』
03年03月23日発表『これがアメリカの常套手段だ』
03年04月04日発表『キムとサダムの神隠し』
03年03月03日発表『自由の代償としての文化破壊は許されるか』
03年11月24日発表『イラク派遣を前にシベリア出兵を検証せよ』
04年04月09日発表『アラブ百年の信頼をフイにしてはならない』
04年04月28日発表『フセインは偉大なり』
06年11月28日発表『イラク戦争解決の鍵はイスラエルにあり』



▼「都合の悪い過去」を葬りたいだけ


弁舌爽やかなサダム・フセイン“被告”

  今回の「死刑執行」に対しては、今後も各方面から多くの批判が巻き起こるだろうが、この報せを耳にして真っ先に思ったことは、「勝者が敗者を裁く」という60年前の「極東軍事裁判(東京裁判)」の図式から何らの進歩が見られないことが情けなかった。見方によっては、形だけでも各国から判事が審理に参加した東京裁判よりもさらに前近代的な「魔女裁判」並みの法廷劇であった。「この裁判を認めない」というフセイン氏の陳述が示すとおり、2005年10月19日に開始されたバグダッドでの特別法廷は、始めからフセイン氏を「罪人」に仕立て上げるために設定された実にお粗末なものであったが、その圧倒的に不利な状況下においてもフセイン氏は実に果敢に戦って、もし、裁判の中身が一言一句編集されずそのままテレビ中継されていたら、教養のある多くの人からは「フセイン勝利(=無罪)」と推定するに足りうる中身であったであろう。さすが長年一国を率いてきた指導者だと思った。

  それに引き替え、マリキ政権側が用意した判事たちは、いかにも狡猾そうな顔をした男たちであった。検事には大量の文書資料を持ち込むことを認めながら、法定内でメモを取る紙すら持つことが許されなかったフセイン氏は、手のひらをメモ代わりにして、相手の重要な科白を記録に留めるというパフォーマンスまでやってのけた。第一、独裁者として権力を恣(ほしいまま)にしていた頃と比べて、フセイン氏の顔は柔和かつ聡明な「ええ顔」に急激に変化していった。それと引き替え、ラムズフェルド前国防長官やブッシュ大統領、あるいはマリキ首相の顔は、いかにも品のない「悪人顔」である。


四面楚歌でもこの笑顔

フセイン氏を「人道に対する罪」を犯した犯罪人として裁くには、なんといっても、イラン・イラク戦争末期の1988年に、自国民であるクルド人を大量虐殺したこと(註:イランとの戦時下におけるフセイン政権への抵抗活動が、「利敵行為」と見なされて、クルド人数千人が化学兵器によって虐殺されたとされる事件)に対して裁くべきであろう。ところが、実は、イラン・イラク戦争中は「イラン憎し」で凝り固まるアメリカのレーガン政権が、フセイン政権に対して総額297億ドル(三千数百億円以上)にもおよぶ巨額の武器援助を行い、いわゆる「クルド人虐殺事件」に対しても、レーガン政権はこれを黙認した。

また、1983年12月19日には、レーガン大統領の特使としてドナルド・ラムズフェルド(ブッシュ政権の国防長官)がバグダッドを訪問して、フセイン大統領と90分間にもおよぶ「友好的な会談」を行なう。などと言ったアメリカにとっても「都合の悪い過去」の問題が白日の下に曝されることになり、それを恐れたブッシュ政権は、フセイン統治下のすべての悪業を処断することよりも、アメリカにとって関係のない「小さな事件」でフセイン氏を葬り去って、同時に、自らの「都合の悪い過去」も歴史の闇に葬ろうとした。

  もちろん、フセイン政権がイランやクエートに対して行った戦争は、犠牲者の数こそ多かった(註:対イラン戦争のイラク人犠牲者は30万人とも言われる)かも知れないが、これはことの善悪は別として、「主権国家対主権国家」間の“正統な戦争”であり、このことを裁いたら、アメリカをはじめ世界中のどの国も今後、「国権の発動」たる戦争ができなくなってしまうので、口をつぐむのは当然である。そこで、「フセインの悪政」の中では比較的“微罪”な、しかも、どの外国にも迷惑がかからない1982年にイラク中部のドゥジャイル村で起きたシーア派住民148人を殺害したとされる事件が俎上に乗せられた。

この事件は、ドゥジャイル村で起きたフセイン大統領の暗殺未遂事件への報復(註:アジアの伝統的社会では、支配者に楯突く「お尋ね者」と「義賊」と見なして、村挙げて匿うということはままある。だから、いつまで経ってもビン・ラディンも捕まらないのである)として、多くの村人が殺されたとされる事件である。しかし、本件に関する裁判では、公判期間中にもかかわらず、アブドルラフマン裁判長が「殺人者サダムは…」(本来なら「被告人サダムは…」と言うべき)と思わず口走ってしまったように、はじめから、フセイン氏を犯罪者に仕立て上げ、スケープゴート(生贄の山羊)しようと仕組まれた見え見えの三文芝居で、仮にも国民から選挙で選ばれた国家元首だった人物が屠られたのである。本件は、まさに「21世紀の人類史の汚点」として将来振り返られることになるであろう。


▼サダム・フセインは二度死ぬ

  実は、フセイン氏は、生涯に二度「死刑判決」を受けている。今回は、本当に執行されてしまったが、バース党(註:汎アラブの民族社会主義を標榜する世俗主義政党。シリアやイラクで長年政権を握る。イスラム原理主義とは激しく対立する)がイラクで政権を奪取するプロセスにおいて、一度「死刑判決」を受けている。エジプトのナセル革命に触発されて1957年にバース党に入党したフセイン氏は、1958年に王制(註:英国の傀儡と言われたハーシム王家=ヨルダンの王室と同流)を打倒して共和制を施行した軍人出身のアブドル・カセム政権の転覆を狙ったが失敗(1959年)。一度目の「死刑判決」を受けたが、なんとかエジプトに逃れることができた。この頃のフセイン氏の人生は、日本を舞台にあの丹波哲郎も出演した『007は二度死ぬ(007 You Only Live Twice)』ばりの活劇であったと言えよう。自国での難を逃れるためにエジプトへ一時退避して体勢を立て直すというストーリーは、あの預言者アブラハムやイエスと同じ構図である。よくよく考えてみれば、羊飼いの家に生まれたフセイン氏は、この世に生をうけた時には既に父親は他界していたし、ユダヤ・キリスト・イスラム教的世界においては、後々大化けする「劇的要因」はあったのかもしれない。

  若き日のフセイン氏は、ナセル治下のエジプトでは大いに触発されたことであろう。20世紀の前半の中東地域というのは、欧米列強の力を借りて数百年続いたオスマン帝国のくびきから解放されて各国が国民国家を樹立した時代であったが、それは同時に、欧米列強の搾取を受けることになる傀儡政権(ほとんどは王制)下での民族自決ということを意味した。これらの状況を最初に打破していった(註:スエズ運河の国有化を狙って英仏と戦った)のがナセル大統領であり、この時期、ナショナリズムの高揚したエジプトにおいて、フセイン氏は欧米列強とも対抗しうる汎アラブ民族主義思想を吸収していったに違いない。

  フセイン氏は、エジプトでの数年の滞在の後、1963年に故国イラクへと帰還した。しかし、その後も順調に権力の頂点に上り詰めて行ったのではない。ちょうど東京でアジアで初めてのオリンピックが開催されていた1964年10月に逮捕され、二年間の獄中生活の後、脱獄。1968年のバース党によるクーデターに参画し、国権の最高機関となった革命指導評議会(RCC)の副議長に就任した。その後、アフマド・アルバクル大統領の下で実力を身につけ、1973年には国軍最高司令官に就任。膨大な富をもたらす石油事業の国有化を断行。イラクナショナリズムの高揚と共に、国民から圧倒的な支持を集めた。そして、1979年、アルバクル大統領の引退を受けて、遂にイラク共和国大統領・RCC議長・バース党総裁職を三位一体で兼任するイラクの最高指導者の地位に就いたのである。

  確かに、フセイン氏は「独裁者」であったが、これは何も彼独自の「悪逆的な資質」から来たのではなく、この地域の政治的指導者は皆、程度の差はあれ「独裁者」であった(註:エジプトのナセル大統領とその後継者ムバラク大統領、リビアのカダフィ大佐、シリアのアサド大統領父子、サウジアラビアのサウド家の歴代国王、イランのパーレビ皇帝等)。というか、そうでなければ「治まらない」この地域の歴史的社会的事情によるものである。それどころか、欧米先進国と比べて“遅れた”地域である中東において、イスラム教を政治から切り離すという「世俗化」政策を推進することにより、女子教育の推進や女性の社会的権利確立に尽力した功績によって、ユニセフから表彰されているくらいである。


▼中東で最も欧米型に近かったフセイン政権

  しかも、イラク国民を、ユダヤ教やイスラム教の成立より遥か以前から栄えていた古代メソポタミア文明を継承した「世界に冠たる民族」として鼓舞し、ハンムラビ王(在位BC1792〜BC1750年:都市国家バビロンの王家に生まれ、強国のシュメールやアッカドを破り、メソポタミアを統一し、バビロニア王国の建国者となった。人類最古の成文法である『ハンムラビ法典』の制定者として有名)や、ネブカドネザル2世(在位BC605〜BC562年:新バビロニア王国第二代国王。アッシリア帝国やエジプトを破り、中東の覇者となる。BC597年にユダヤ王国を滅ぼし、国王はじめ遺臣たちを首都バビロンへ連れ去ったことは「バビロン捕囚」として歴史に名を留める)と並ぶ民族の英雄としてフセイン氏を特別の存在としていった。事実、共和国防衛隊(註:装備や志気の劣る徴兵制の国軍とは別に組織されたバース党員やフセイン氏と同郷のティクリート出身者からなる志願制のイラク最強部隊)には、イスラム教国には珍しく「ハンムラビ師団」(機械化歩兵師団)や「ネブカドネザル師団」(自動車化歩兵師団)といった「異教徒」風のネーミングがされていた。

  われわれ日本人も含めて、「政教分離」の原則が当然のこととなっているフランス革命に始まる西欧型近代国家(註:西欧型国家でも中世以前は政教一致型が一般的であった)に暮らす人々にとって、むしろ「政教一致」が当然のこととなっているイスラム型近代国家のあり方を理解することは容易ではない。もちろん、政教一致の中世期においては、西欧社会と比べてアラブ世界のほうが遥かに科学文明も社会制度も発達していたが、産業革命を経て近代国民国家が成立するプロセスにおいて、西欧(その延長であるアメリカも)社会は、キリスト教会の世俗権力への介入を排することによって政教分離の原則を確立し、その後の飛躍的な社会発展を遂げた。一方、中東のアラブ社会においては、政教分離の原則を確立できなかったばかりに、中世期のアドバンテージを一挙に失い、欧米列強の「草刈り場」と成り下がってしまったことは逃れようもない文明史的な事実である。

  オスマン帝国崩壊後のトルコは、政教分離を国是に据え、EU加盟(欧州の一部になること)を国家目標として長年取り組んできて、一定の成果を挙げている。同様に、社会を欧米化させることによって近代化を図ったイランは、隣国イラクでフセイン氏が大統領に就任した同じ1979年に、パーレビ皇帝を追放し、ホメイニ師率いるシーア派イスラム革命を実施し、イスラム原理主義国家の道を選んだ。もちろん、メッカとメディアのイスラム教二大聖地(あとの一箇所はエルサレム)の守護者を自認する独裁国家サウジアラビアの国境は、スンニ派の原理主義であるワッハビズムであり、その同じ流れの中にビン・ラディン氏がいる。

  スンニ派・シーア派を問わず、これらの政教一致の原理主義国家は、おそらくこれから50年はもたないであろう。世界において、影響力を与えることができる「しかるべき存在」として生き残るためには、ことの善し悪しは別として、いったんは、政教分離を制度保証した近代国民国家の段階を経ることなしにはあり得ないであろう。そして、フセイン大統領率いるイラク共和国は、四半世紀にわたってこのことを成し遂げようとした、中東地域では希有の存在であった。フセイン氏を処刑してしまった今日、国民国家としての求心力はなくなり、ムクタダ・サドル師率いるシーア派(マリキ首相もシーア派)とフセイン時代に権力の中枢にいたスンニ派との間において、際限ない闘争(完全に「内戦」化してしまっている)が続けられるであろう。もちろん、この結果は、当初ブッシュ政権がイラクにもたらそうとした「民主主義体制」でないことは言うまでもない。


▼殉教者フセイン

しかし、このように書いてくると、読者の皆さんの中には、「(日本の多くの政治家のように)フセイン氏は無信仰な人間であった」と勘違いする向きがあるかもしないが、それは大間違いである。彼自身は、敬虔なイスラム教徒であった。フセイン氏の偉いところは、彼自身の信仰心と国家の政治的運営を別のものとして捉えることができたことである。これは、大多数の国民がイスラム教徒の地域の国家にとって、大変難しいことである。なぜなら、イスラムという宗教(というよりは、社会システム)自身が、社会制度としてのイスラムを保証しないと成り立ちにくい宗教だからである。考えても見て欲しい。例えば、日本の社会において、「お祈りの時間が来たから」と言って、流れ作業の工場で、ある労働者が職場を離れるということは許されないであろう。また、ラマダーンで断食している人の隣の部屋では酒呑んで大宴会が行われているということも当然のことである。すなわち、宗教として占有率が高くならないと、その全たきシステムが作動しないからである。そういう宗教が支配的な地域において「政教分離」が実施できたのである。素晴らしい資質であると言えないだろうか。ひとつ例を挙げると、周辺のアラブ諸国や国内の熱心なイスラム教徒への配慮を示して、黒・白・赤の三色旗の中に「???? ????(allahu akbar=神は偉大なり)」とアラビア語で入れさせることによってバランスを取っている。


イラク国旗、中央の三つ星の間に
「神は偉大なり」と記されている


  フセイン氏自身のムスリムとしての信仰心は、その波瀾万丈の人生の最期の段階において証明された。絞首刑に処せられるその瞬間、フセイン氏は「アッラーの他に神はない。ムハンマドは神の預言者である」というイスラム教徒の信仰告白を唱えながら縊(くび)られたのである。しかも、若い頃からの汎アラブ主義の精神に則り、自らのいのちが尽きようとしているその瞬間にも、「弱者」であるパレスチナ人に対する連帯(「神(アッラー)は偉大なり。イラク国民は勝利する。パレスチナはアラブのものだ」)を呼びかけて…。百点満点である。人間今から絞首刑に処せられるというその絶体絶命の場面において、あれだけ毅然とした態度でおられたのは、サダム・フセインという人物が本物の傑物だからである。

  それに引き替え、マリキ政権の死刑執行人たちの下卑なこと…。しかも、あろうことか、イスラム教徒にとっては人生の一大事である聖地メッカ巡礼(ハッジ)の最終日に行われる「犠牲祭(イードゥル・アドハー)」の当日にフセイン氏への死刑を執行したのである。この犠牲祭の日には、たとえメッカに巡礼(註:サウジ政府が許可=ビザ発給している巡礼者数は百数十万人。全世界のイスラム教徒は十数億人)できなくても、世界中のイスラム教徒がその昔、「唯一神(ヤハウェ=アッラー)」の召し出しに応じて、メソポタミアの都市国家ウルから発って、エジプト経由で「約束の地」カナン(現在のパレスチナ地方)へと移住したユダヤ・キリスト・イスラム教共通の先祖と目されるアブラハム(アラビア語ではイブラヒーム)が、その「唯一神」への信仰の真っ直ぐさを証明するために、年老いてからやっと授かることのできた跡取り息子のイサク(アラビア語ではイスマイル)を惜しげもなく、生贄(いけにえ)に差し出そうとしたところ、唯一神はアブラハムの信仰心を祝して、息子の代わりに山羊を生贄として受け取ったという故事に基づく宗教行事である。この日一日だけで、何千万頭という山羊が全世界で屠(ほふ)られるので、山羊にとっては一大「受難の日」であるが…。

  こうして、あろうことか「犠牲祭」の日に、処刑されたフセイン氏の物語は、アラブ世界において、これから先百年以上にわたって伝承されていくことであろう。まさに、サダム・フセインをアラブの同胞を守るために“悪の帝国”であるアメリカという“異教徒”と戦って殉教した英雄として拡大再生産されてゆくのである。この日、イラクに派遣されているアメリカ軍兵士の犠牲者数が3,000人を超えた。この数は、「9.11米国中枢同時テロ」事件の犠牲者数よりも多い。読者の皆さんはこの事実をどのように解釈されるか…。最後に、フセイン氏の事実上の遺言となった11月5日付の獄中からの書簡の内容がBBCによって公表されているので、その邦訳を紹介しておく。あたかも12月30日の犠牲祭の日に、自らが処刑されることを知っていて、イエスのように、その刑死を、人々を救済するための「神への贖(あがな)い」と位置づけることを意図したようにも読める。イラクの人々に、否、アラブ全体の人々の心に百年先まで残る楔(くさび)を打ち込んだのである。ある意味、サダム・フセインは「永遠の生」を手に入れたとも言えよう。


(イラク国民の)皆さんは、あなたがたの兄弟であり指導者である彼(サダム・フセイン)が(獄に繋がれているにもかかわらず)意気軒昂であること、彼が暴君(ジョージ・W・ブッシュ)に屈服しなかったこと、そして彼を愛する者たち(イラク国民)の願い通りに剣と旗を掲げ続けたことを既に知っている。 このことはあなた方が兄弟・息子(イラクの同胞)に、あるいは指導者(フセイン)に求めたことであり、またあなた方の将来を導く者は同じ資質を備えるべきである。

  ここに私は自らの魂を生贄として神(アッラー)に捧げ、もし神が私の魂を殉教者たちとともに天国に送られるのなら、私はそれを喜んで受け入れるし、あるいは神がそれを延期されるのなら、私は神の意志に従うつもりだ。

  神は、あなた方が愛と許しと兄弟的な共存の体現者となるよう励まされてきたことを忘れてはならない。 私があなた方に「憎悪してはいけない」と呼びかけるのは、憎悪は人が公正であることを妨げ、あなた方を盲目にして思考する道を閉ざし、バランスのとれた思考と正しい選択をさせなくするからである。

  私はまた、あなた方に私たちを攻撃した諸国の国民を憎んではいけないと呼びかける。 政治的指導者(ブッシュ米国大統領やブレア英国首相等)とその国民(米国人や英国人等)を区別することが大切だ。 あなた方は、侵略国の国民の中にも侵略に反対してあなた方の戦いを支持する者が大勢いたこと、しかも、その中のある者はサダム・フセインを含む拘束者の法的弁護活動を志願までしてくれたことを心に留めておくべきである。

  誠実な国民の皆さん。 私はあなた方に別れを告げるが、私は慈悲深き神(アッラー)とともにあり、神は避難を求める人々を支援し、誠実で正直な信徒を決して裏切ることはない。

  神(アッラー)は偉大なり。 神は偉大なり。 イラク国民万歳。 戦い続ける偉大なる国民万歳。 イラク万歳、イラク万歳。 パレスチナ万歳。 聖戦と聖戦をたたかう戦士(ムジャヒディン)万歳。

イラク共和国大統領 サダム・フセイン


『賛美の生贄と祈り』 モーツアルト作曲『レクイエム』より

賛美の生贄と祈りを
 主よ、あなたに私たちは捧げます。
 彼らの魂のために
 お受け取りください。
 今日、私たちが追悼する
 その魂のために。
 主よ、彼らの魂を死から生へとお移しください。
 かつてあなたがアブラハムとその子孫に
 約束したように。


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