忍ぶれど色に出でけり…  
 1999.1.24


レルネット主幹 三宅善信


▼『主幹の主観』3つのテーマ

「レルネット」ホームページを開設して満1周年が経過した。おかげさまで、のべ11,000名以上の人が当ホームページに立ち寄ってくださったことになる。特に、昨年9月以来、ひと月平均1,500件の割合で「来客」がある計算になる。それ以前(1〜8月)のひと月平均500件のヒットと比べて3倍増である。当ホームページの主催者としては嬉しいかぎりであるが、原因を分析して思い当たることは、その頃から拙エッセイ『主幹の主観』を月数回の割で掲載するようになったというだ。「わが国の諸宗教団体の情報をできるだけ客観的に提供する」というレルネットの目標からいうと、私の主観を縷々述べることに問題があるのではないかと思いつつも、宗教に対する客観的なデータの開陳だけでは飽き足りず、それに対する分析・解説・評価を求めている人々が多いことをあらためて認識させられた。

昨年5月に上梓した『神道と「柱」』から最新作『老いを生きる』までの28作品は、単なる「思いつき」で認ためたものから、結構、資料を調べて「学術的」に書いたものまでさまざまである。全くのうろ覚え(あるいは事実の誤認)に基づいた話から、中には、その道の専門家の先生に内容の確認をお願いしたものまであるが、私にとってはどれも愛着のある作品だ。人によってものごとへの関心や感性も異なるので、当然と言えば当然であるが、自分としては「自信を持って上梓した」作品にあまり反応がなくて、「適当にお茶を濁した」作品に多数の賞賛が寄せられたりするものだから、意外な発見ができて面白い。

拙『主幹の主観』の内容は、次の3つのテーマに大別される。すなわち、@日本人・文化の集合無意識に関わるもの、A宗教と生命科学・技術との関係、B国際情勢と文明比較・批判、である。@に属するものとしては『ウルトラマンに観る親鸞思想』『「もののけ」の正体とは?』等が、Aに属するものとしては『遺体と遺伝子』『生命進化と「方便」』等が、Bに属するものとしては『「正義」という「不正義」』『テコで地球は持ち上げられるか?』等が挙げられる。インターネットの世界では「テーマや用語による検索」ということがよく行われているので、できるだけ多くの「これまであまり宗教に関心がなかった(というようりは、宗教的問題を考えてみるきっかけがなかった)人々」にも、これらの問題を考えてもらうきっかけを持ってもらうためにも、できるだけ異なった分野のキーワードを用いて、そこから「宗教」の世界へと誘ってゆければ、と考えている。

当ホームページを開設するまで一面識もなかった人と『主幹の主観』を通じて共感し合うことができるのがインターネットのよいところである。「世間には同じような問題意識を持っている人がこんなにいるのか」と、驚くと同時に、インターネットがなければ永久に知り合うことができなかったっであろうと思われる。今では『投稿論文』のコーナーのレギュラーとしてすっかり定着された萬遜樹氏などは、その典型である。文字通り、「忍ぶれど 色に出でけり…」だ。仏教が説く「縁」や「一即多」の世界などは、インターネットの出現によって、まさに現実のものと化した。


▼「坊主めくり」は「ハレ・ケ・ケガレ」の三様態

随分と前置きが長くなったが、今日の本題に入ろう。お正月以来、わが家でよく行われる遊びに「坊主めくり」がある。あの『百人一首』かるたの絵札を使ってするゲームだ。教育的見地からすれば、「源平合戦」形式の競技かるた(いわゆる「かるた取り」)をすればよいのだろうが、子供がまだ幼い(8歳・6歳・4歳)ので、まず「和歌」の世界に馴染ませるためにも、とりあえず「坊主めくり」からだ。これでも、いろいろ学べる点がある。まず、「人生、最後まで勝負は判らない」ということである。途中、山ほど札を貯め込んで、ぬか喜びしても、最後に「坊主」の札を引けば、一瞬にしてパーである。

それに、人間生活には、「ハレ(祝儀)」と「ケ(氣=日常生活)」と「ケガレ(不祝儀)」の3要素があるということ。すなわち、「坊主めくり」でいうと、ハレ=お姫さんの札、ケ=お公家さんの札、そして、ケガレ=お坊さんの札ということになる。一番多いのは、当然、日常生活である「ケ」のお公家さんの札(この札が出れば、そのまま「場」に置いておく)である。非日常を象徴する「ハレ」のお姫さんを引けば、「場」にある札はゲット(祝儀)できる。そして、もう一方の非日常である「ケガレ」のお坊さんの札を引けば、「手」に貯め込んだ札は全て吐き出し(不祝儀)だ。それぞれの札のバランス(公家64人・姫21人・僧侶15人)が本当によくできていて、毎日しても飽きない。親子のコミュニケーションを取るのには最適の遊びである。

あるとき、お寺が経営している幼稚園に通っている娘が質問した。「お父さん、『坊主めくり』の遊びって、もし、その人のおうちがお寺のときでも、『お坊さん』を引いたら、やっぱり『吐き出し』なんやろうか?…」鋭い質問である。大多数の一般人にとって、僧侶と接する機会は、大抵、葬儀や法事といった、いわば「不祝儀(非日常)」の時に限られるが、お坊さんにだって家族や生活(日常)はあるし、葬儀でもあろうものなら、むしろ「お布施(臨時収入)」が入るので、これは「祝儀」と言えるではないか…。私は娘に「なかなかいいところに気が付いたね。それじゃ、今度から『お坊さん』を引いたら『いただき』で、逆に『お姫さん』を引いたら『吐き出し』というルールで行こうか」と、正・反を入れ替えたゲームをときどきすることにしている。

マジョリティ(多数派)にとっての「正義」が、必ずしも、マイノリティ(少数派)にとっての「正義」であるかどうか判らないところがミソである。現実には、往々にして、その反対であることが多い。考えてみれば、犯罪や交通違反を取り締まるのが警察の仕事だが、もし、警察の仕事が完璧に全うされて、この国から犯罪や交通違反がなくなってしまったら、警察そのものも不要になってしまう。それでは、警察も組織防衛(雇用確保)上困るだろうから、適当な割合で犯罪や交通事故が発生してくれなければならない。したがって、警察にとっては「善良な一般市民よりも、犯罪者や交通違反者こそが『大切なお客さん』なのだ」という論理も成り立つ。また、見通しがよいにも拘わらず、制限時速80km/hになっている高速道路を、みんなが120km/hで走っている時に、1台だけ杓子定規に80km/hを守ってタラタラ走ったら、かえってそちらの方が危険だということもあり得る。つまり、何が正しくて、何が正しくないのかは、いよいよのところは判らないということである。


▼古典の名文は棒暗記させるのが正解

『百人一首』の話に戻す。われわれが通常『百人一首』と呼んでいるものは、鎌倉時代の代表的歌人藤原定家が選んだと言われる『小倉百人一首』のことである。定家の日記『名月記』によると、百人一首が選択されたのは1235年のことらしい。定家の山荘「時雨亭」が小倉山(京都市左京区嵯峨)の麓にあり、その山荘の襖の色紙形に百首の歌を書き付けたからだと伝えられている。収録されている歌は、飛鳥時代の天智天皇(626〜671年)から、鎌倉時代の順徳院(1197〜1242年)までの約600年間にわたるわが国の代表的な歌人の秀歌から選んで、ほぼ年代順に配列されている。これらは全て、『古今集』・『拾遺集』・『後撰集』などの10の勅撰和歌集から選ばれている。もちろん、現在のような「かるた」形式になって、庶民の間ににも普及したのは江戸時代のことである。因みに、「かるた」の語源は、ポルトガル語の「カルタ(karta)」であり、これは英語の「カード(card)」やドイツ語の「カルテ(karte)」と同じく、「硬い紙」という意味である。上流階級の遊びは「貝合わせ」や「双六(すごろく=バックギャモン)」が主流であった。

それに、子供たちと「競技かるた」遊びがしにくいのには、もうひとつの訳がある。それは、男女の間柄の歌が半数近くあるのであるが、中には「ながからむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ」の如き、子供に「この歌はどういう意味か?」と聞かれて説明するのが難しい歌がかなりあるということである。子供たちは、なかなか感がいいので、下手な説明などしようものなら、すぐに突っ込んでくる。もっとも、伝統的な日本語の美しいリズムを身につけさせるためには、意味など理解できる前から「棒暗記」させるのが一番であるので、リフレインやリズムのきれいな歌は、どんどんと聴かせて、耳で覚えさせて行こうと思う。アラブ人が『コーラン』を詠唱するのも、ユダヤ人が『トーラー(律法)』を空んじられるのも、子供の時からこれを棒暗記させられたからであり、日本でも、江戸時代には寺子屋で『論語』等の名文を棒暗記したので、長じてから文章力が付いたとも言える。この時代の文章を読んでみると、筆者が若いのにしっかりした文章が書けていることが多い。


▼『百人一首』に観る「モノ」の世界

そういう訳で、子供に聴かせるべく『百人一首』の歌を詠んでいると、あることに気が付いた。私が以前から関心を持っている(それ故に、『主幹の主観』でも何度も取り上げている)「モノ」という表現がしばしば登場するのだ。日本人の集合無意識ともいえるものがアニミズム的な「モノ」的な情念の世界だから、当然といえば当然のことであるのだが、数えてみれば、全部で15首もあるではないか…。以下、その全てを掲載する。なお、各歌の冒頭に付けられている番号は、『小倉百人一首』の掲載順である。

23◆月見れば千々に 物こそ かなしけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど   大江千里
30◆有明の つれなく見えし 別れより あかつきばかり 憂きものはなし      壬生忠峯
40◆忍ぶれど 色に出でけり わが恋ひは 物やおもうふと 人のとふまで     平兼盛
43◆逢ひ見ての 後の心にくらぶれば むかしは物を 思わざりけり         権中納言敦忠
48◆風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけて物を おもふ頃かな       源重之
49◆みかき守 衛士のたく火の 夜はもえ ひるはきえつつ 物をこそおもへ    大中臣能宣朝臣
52◆明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな    藤原道信朝臣
53◆嘆きつつひとり ぬる夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る     右大将道綱母
59◆やすらはで 寝なまし物を 小夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな    赤染衛門
80◆ながからむ 心もしらず 黒髪の みだれてけさは 物をこそおもへ       待賢門院堀川
82◆おもひわび さても命は在るものを 憂きに堪えぬは なみだなりけり      道因法師
85◆夜もすがら 物思ふ頃は 明けやらぬ ねやのひまさへ つれなかりけり    俊恵法師
86◆なげけとて 月やは物を おもはする かこちがほなる わがなみだかな    西行法師
96◆花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり         入道前太政大臣
99◆人も惜し 人も恨めし 味気なく 世を思うゆゑに ものおもふ身は        後鳥羽院

これら15首のうち、「モノ」を「物思い(う)」という用法(意味)で使っている歌は、40・43・48・49・80・85・86・99番の8首である。その他の7首は「道理」とか「状態」という意味で使われている。『投稿論文』のページでお馴染みの京都大学大学院日本文化環境論講座博士過程の永原順子さんの協力を得て、各首の作者・背景・意味等を分析してみた。


▼「物(もの)」は「色(いろ)」として出てしまう

まず、今回の『主幹の主観』の題名にも使われている40番の「忍ぶれど 色に出でけり わが恋ひは 物やおもうふと 人のとふまで」という歌であるが、この作者である平兼盛(? 〜990年)という人物は、名前から連想されるような「平家の公達(栄耀栄華を極めた平清盛の子孫)」ではなくて、それより200年も前の10世紀後半の人であり、いわゆる「三十六歌仙」のひとりである。兼盛は、光孝天皇の子孫であるが、父篤行の時に皇籍を離れ「平」姓を賜った。この歌は、村上天皇の御代「天徳4年内裏歌合」の時に詠まれたものだが、その時のエピソード(対戦相手は、「恋すてふ 我名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ おもひそめしか」を詠んだ壬生忠見であったが、判者(審判)の左大臣藤原実頼以下が優劣つけ難く困惑している時に、帝が兼盛の歌を口ずさみ、雌雄が決した。敗れた忠見はショックで食べ物が喉を通らなくなって死んだ)は有名である。『百人一首』の選者藤原定家も優劣つけ難く思ったのか、兼盛の歌(40番)の直後に忠見の歌を41番として収録している。

歌の意味は、「私の恋は人に知られまいと心の中に包み隠してきたが、とうとう顔や様子に出てしまったことだ。『何か物思いをしているのか?』と人が問う程に」といった感じである。興味深いことは、「物(もの)」は「色(いろ)」として出てしまうという構造である。ここでいう「色(いろ)」とは、もちろん仏教思想でいうところの「色即是空」の「色(しき=物質)」とは異なる。そのような高尚な哲学的認識論の問題ではなく、アニミズムでいうところの「モノ」とは、カミやヒトはいうまでもなく、山川草木が悉く有しているところの「anima(生体エネルギー=氣)」の入れ物のことであるが、その「モノ」が、それを宿している肉体の表面に自ずから発出してしまう状態のことを「色(いろ)に出でけり」と表現しているのである。その証拠に、「色気(いろけ)」という言葉があるし、それをひっくり返した「気色(けいろ・きしょく)」という言葉もある。文字通り「モノの気」の世界である。そして、人間のようにあれこれと小賢しい理屈を考えずに、本能(気)のままに生きている生き物のことを「獣(けもの)」と呼び、不思議や英語でも「animal(けもの)」と呼んでいる。


▼道真の怨霊と右近の情念

次に、百人一首中で私の最もお気に入りの歌である43番の「逢ひ見ての 後の心にくらぶれば むかしは物を 思わざりけり」について論じたい。歌の意味は、「(ゆうべ)あなたとふたりっきりでお会いした(セックスした)後の、今のいよいよつのる恋しさにくらべれば、契りを結ぶ以前の『会いたい会いたい』と思っていた頃の恋いのつらさなんか、何も物思いをしないのと同じようなものだ」といったところか…。平安時代の公卿のライフスタイルはいうまでもなく、男性側の「通い婚」だから、公卿たちは「朝帰り」した後、直ちにこのような歯の浮くような歌を創って、相手の女性に届けさせ、今宵の逢瀬の長いプロローグを予感さたのである。なんたる高等戦術…。動物としては、単なる子孫繁殖の営みに過ぎない性交渉を、作法としてここまで文化的に高めることができたこの国の平安時代に乾杯!である。

ところで、この歌の作者である権中納言敦忠とは、あの菅原道真を政治的陰謀によって左遷(右大臣→太宰府権宰)し、かの地で憤死させた張本人の左大臣藤原時平(後に、道真の怨霊によって変死する)の三男藤原敦忠(906〜943年)。蔵人頭・参議を経て37歳で、従三位中納言(時代劇でお馴染み「水戸黄門」と同じ位階)に昇ったが、翌年病死した。敦忠の死は菅原道真の怨霊によるとされる。いよいよ「物の怪」の世界の登場だ。敦忠は琵琶の名手であり、同じく『百人一首』に掲載されている右近(右近衛少将藤原季縄の娘で、醍醐天皇の后穏子に仕えた)との恋愛エピソードも有名である。

敦忠は、右近との恋愛中に先の43番の歌(「逢ひ見ての…)を贈ったが、その後、心変わりして右近のもとに通わなくなった。そのことに対する右近からの当てつけの歌が、38番「忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな」である。意味は、「あなたに忘れられる私の身の不幸など、私にとってはなんでもありません。ただ(「いつまでも私を愛してくださる」と神様に)お誓いになったあなたが、(その誓いを裏切ったために神様の罰を受けて)死んでおしまいになるのではないかと、それが惜しまれてなりません」といった感じだ。女の執念とはあな恐ろしや…。道真の怨霊と右近の情念をもろに受ける形になった敦忠が、ほどなく命を落としたのは言うまでもない。

わずか2首(なぜ、和歌を数える数詞は「首」なのだろうか?)に対する私の分析・解釈だけでも、予定の枚数に達してしまったので、他の歌へのコメントは別の機会に譲りたい(読者のどなたかが挑戦して『投稿論文』のページへ投稿していただきたい)。しかしながら、これだけでも、十分に和歌の世界に投影された日本文化の集合無意識ともいうべき「モノ」の世界の一端を伺い知ることはできよう。しかも、『百人一首』に限って言えば、「モノ」という表現が使われている歌は、平安時代初期の漢学者大江千里の歌(23番「月見れば…」)から鎌倉時代の後鳥羽院の歌(99番「人も惜し…」)までの15首で、なぜ、飛鳥時代や奈良時代の歌に「モノ」が詠まれていないのか? という疑問も残る。そういえば、以前に『「もののけ」の正体とは?』で書いたこの国における「物語文学」の全盛期(『竹取物語』・『伊勢物語』・『源氏物語』・『今昔物語』・『平家物語』が、約百年おきに創られた)である400年間とも時期が重なる。「モノ」の世界は、古代の豪族物部(もののべ)氏を藤原氏が滅ぼしてから、本格的な武士(もののふ)の時代(後鳥羽院や順徳院たちは、1221年の「承 久の乱」で鎌倉方に敗れ、天皇(上皇)が武家によって島流しにされた)の成立まで期間に、不思議と「色に出た(表層化した)」現象なのであった。


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