★2003年 上半期掲示板掲載分

■神道は、個体的永遠性より共同体的永遠性を  
03年01月11日
      梅田善美(団体役員)

「主幹の主観」拝読しました。いつもながら、先生の博識と論証そして直截な分析ぶりには感服いたします。

 たしかにクローン人間については、生命倫理という不可解なものが前提になって論議というか、疑念が提議されていると思います。人間が有死を前提に生きているかぎり、生前の行いを死後に結びつける永遠倫理を考えなければ、宗教は成り立たないのではないかと思います。

 神道の死生観は、いつかロンドン大学でのシンポジウムの中でも議論されましたが、個体的永遠性より共同体的(家族)永遠性につながるものなので、クローンを畜類や植物に認めて、人間に認めないのは、片手落ちなのかもしれませんね。

 ちょっと私には理論付けができませんが、勧請という形ちで行われる神の細胞分裂性を考えれば、クローンについての論議がよりわかりやすくなるようです。先生の主観に大いに啓発され、とりあえず、ごく簡単な感想を申し上げました。



■いまだに、宗教や倫理、道徳を扱うことが苦手なマスコミは・・・    
  03年01月11日
       三阪和弘 (神戸大学大学院国際協力研究科)

 『神道はクローンによって誕生した』を拝見しました。

 私は、上述の論稿を拝見しながら、つくづく我々日本人の議論の薄さを痛感しました。

 私自身の勉強不足もあるでしょうが、三宅様のように、科学、宗教、倫理という3つの視点から複合的に論じた方は限りなく少なく、また三宅様とこのテーマで同等に議論ができる方も限りなく少ないように感じました。もちろん私とて、このテーマに関してはただただ関心して拝見してしまいました。

 日本ではえてして、宗教は宗教、倫理は倫理、科学は科学ということで、別々のフィールドで議論されることが多く、明確な信仰心を抱きながら、科学的に物事を捉えられる人材が欧米に比べて圧倒的に少ないように思われます。

 かつてエジソンが、火事にて自分の研究財産を焼失した後に、「これも神の思し召し」と捉えた考え方など、日本の研究者、企業家には想像もできないことでしょう。

 私はクローンの問題をはじめ、遺伝子研究が隆盛をきわめる今世紀には、生命倫理という視点からの議論が不可欠になると思っています。

 クローンは生命誕生にかかわることですが、老化原因が解明されるなどして寿命がはてしなく延びる可能性のある未来では、現在時折話題になっている「脳死」の問題とともに、「人生の終焉」というテーマで議論がなされることでしょう。

 翻って、私の研究分野である「環境」に関しても、かつて「鎮守の森」が災害防止の意味で、当該地にあったなど、宗教的意味合いと科学的意味合いが交差していたことが多くあります。

 私の知人で社寺林を研究している方がいますが、その方とも、宗教と科学のことに関してはよく議論をしています。

 今後、卑近なところ(マスコミ報道)でクローンが話題になるか否かは、残念ながら「北朝鮮・イラク問題」次第のような気がしています。

 クローンに関しては、年末年始をはさんだためか、思ったより盛り上がりにかけ、扱いが小さいように思います。

 いまだに、宗教や倫理、道徳を扱うことが苦手なマスコミは、クローン問題をどのような切り口で捉えればいいのかが解からないのでしょう。

 そういった意味では、三宅様は時代の先を行き過ぎているのかもしれませんね。




■人口問題は、現在の生殖方法が不可能となることによって、劇的に解決される?
03年01月11日
        三輪隆裕(日吉神社宮司)

 玉稿を拝読いたしました。いつもと同様に、大変面白く書かれております。

 日本の伝統宗教のいい加減さのご批判は、全くその通りでありましょう。


 古事記冒頭の付加部分をクローンの問題と関係させ、生殖の複雑化と細胞の変質のプロセスと絡んで考えるのはアイデアですね。

 私は、単身の神が夫婦神に変化し、具体化するプロセスに、人間の認識の発展の過程のプロセスを読み込んでも良いと思います。


 ヘーゲルの「主観ー客観」の弁証法のプロセスですね。仏教でも色と空の概念で認識を説いていますが、これは、同じ構造でしょう。

 人間は、自己と他者の問題が洋の東西を問わず、関心事 なのでしょう。


 クローンについては、人類の最終の生殖の方法となるのではないかと考えています。

 動物的な有性生殖と男性の存在は、文明の発達による環境の破壊によって否定されるでしょう。

 人口問題は、現在の生殖方法が不可能となることによって、劇的に解決されるのではないかと考えています。



■日本宗教界のクローン人間批判は、上部意識からだけのこしらえもの   
03年01月11日
      萬 遜樹

 新作を拝読しました。いつもながら啓蒙的ですね。主幹の発生学と生命誌に関する蘊蓄もお見事です。

 ただ、クローンという問題は少々分かりにくいように思います。というのは、おそらく遺伝子というレベルと人間がふつうに認識できるレベルとのつながりが分かりにくいからだと思います。このあたりについては、また別の素材で平たくお説き頂ければと思います。

 さて、私なんぞは「ラエリアン・ムーブメント」なるものが何者なのかさえ知りませんでしたので、彼らが人類クローン発生という奇説を主張し、その証明か何かは分かりませんが、初のクローン人間誕生(?)に挑戦していたことが本稿によって理解できました。また、それが一神教にとって、どのような意味=脅威かも。

 日本宗教界への主幹の不満はよく分かります。欧米宗派と同工異曲な反発では、おっしゃる通り、お前たちの宗教の本当の精神基盤は何なのか。実はキリスト教を基底とした欧米近代主義ではないのかーーと批判されてしまいますよね。

 実際、日本人の「宗教」はこのあたりが本当のポイントだと思います。日本人は上部と下部の精神が分裂しているというが私の持論です。だから、多分日本宗教界のクローン人間批判は上部意識からだけのこしらえものでしょう。本当のところでは、どうでもよいと思っているから、上部意識だけから反発しているものと思われます。

 モーニング娘のクローン的と言うか、神道的な解釈はさすがです。主幹ならでは、と申し上げておきます。この着想は大いに学びたいものです。



■仏教は、キリスト教等とは異なった論点でこそ、その反ヒューマニズム性を指弾できる 
03年01月11日
      高田信良(龍谷大学教授)
 いつもながら、迅速な対応、適切な論旨に感激、感謝しました。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラムなどの宗教的文脈からすれば「許し難い冒涜」になるのだと思います。同感です。

 そして、仏教等の立場からは、キリスト教等とは、異なった(同じではない)論点でこそ、その反ヒューマニズム性を指弾できるし、また、すべきなのだと思います。

 脳死定義の問題は、心臓移植の治療技術が確立したからこそ語られるようになったものでしょう。脳死と心臓死との時間差は、生理的事実だし、それを治療に応用する(役立たせる)こと自体は、なにも、仏教等の教理に抵触するわけではないでしょう。

 「クローン人間」問題も、同じ問題でしょう。発想自体は、手品みたいな不思議な技術ですが、遺伝子治療や遺伝子組み換えでの食糧増産が是とされるのなら、クローン人間も、論理的には反論できないでしょう。

 なにしろ、動物実験の虐待は、「当然視」しているわけですし、自殺の権利?も認めようという訳ですから徹底した自己主張(自己保存、自我への執着)をして「どこが悪いのだ」との開き直っているわけです。

 宗教の視点とは、信仰・実践的な視点でしょう。人間の営為・文化の問題を、どこまで自己否定的に語ることができるのか、そのような人間論をどのように語れるのか、を論じるべきなのでしょう・・・



■宗教の扱いが苦手なマスコミは、科学をなのる宗教教団をもてあます
03年01月12日
      岡田真美子(姫路工業大学 教授 環境宗教学)

 三阪さんがお書きのように、宗教の扱いが苦手なマスコミは、科学をなのる宗教教団というラエリアンはもてあまし気味ですね。

 主幹は、アポトーシス、アポビオーシス/有性生殖、無性生殖という生物学的な問題をさりげなくわかりやすく説明しながら論じていらっしゃることに感心いたしました。

 そういえば今週のNEWSWEEKにラエルの取材が載ってましたね。主幹がご指摘のように、ラエリアンはクリスチャニティの創造観への挑戦を行っているということがよくわかる記事でした。でも、記者はラエリアンは5万5千人、クリスチャンは25億人と加えることを忘れていませんでした。(笑)

 わたくしは、鉄腕アトムは「機械」ではなく、クローンだ、ということをお話したと思います。次世代型ロボットとしてクローンは無視できない存在になるでしょうし、これからもこの問題を視野に入れてゆきたいと考えています。これもまた三阪さんのおっしゃるように、3歩先のはなしかもしれませんが。



■可能ならもう少し強烈に 
 03年01月13日
井上昭夫(天理大学おやさと研究所 所長)
 (『神道はクローンによって誕生した 』)面白く拝読させていただきました。最後のほうがもうちょっと続けばなおさら面白いと思います。

 皮肉のわさびがネタをきらりと引き立てています。可能なら涙が出るくらいもう少し強烈に。

 同じ路線で「異端」や「キメラ」を考えてください。免疫やハイブリッド、拒絶反応(原理主義者etc)など生物学のアナロジーを駆使して。

 今年もご活躍を祈っています。



■今こそ本格的な宗教的生命倫理のテキストが必要な時期
 03年01月17日
 金子 昭 (天理大学 助教授)

 「神道はクローンによって誕生した」興味深く読ませていただきました。

 記紀神話が無意識の内にクローン的発想をしているというのは、鋭い指摘です。なるほど、とうなずかされます。

 ただ、肉体なき神の融通無下な「細胞分裂」なら、意識下のシントウイストである日本人はかまわないのですが(つまり物をコピーして同じ製品をたくさん作り出す感覚です)、肉体を介しての人間の複製はやはり抵抗があるはずでしょう。

 なぜなら、クローンといっても、生殖細胞を取り出してそれを加工し、また子宮に入れて…という操作をする以上、神道の最大タブーの一つ「血のけがれ」に触れてきます。政府レベルや各宗教レベルでは、ES細胞の研究問題でも、生殖細胞に手を加えない限り、大体OKというような論調が大勢を占めているのも、そこにあるかもしれません。

 記紀神話における無性生殖の神々はいったんすべて姿を消している、という点にむしろ着目すべきであり、八柱の神々のところまでは、いわば「神話」の中の「神話」の部分に属していると思います。

 クローン問題は、生命倫理の分野でも反対意見が出しやすい(教理を深めずともヒューマニズムのレベルで議論ができる)というのは、先生のおっしゃる通りです。

 私は、今年は天理教と生命倫理について、脳死・臓器移植、尊厳死、生殖医療、遺伝子治療と、すべての個別分野を網羅した決定版の本を書こうと考えています。各種宗教学会でときどき、諸宗教の見解として紹介されるのがいかにも通り一遍であり、しかも一般的な生命倫理関係の学会では宗教サイドの意見が無視されたり軽んじられていることが多いので、今こそ本格的な宗教的生命倫理のテキストが必要な時期だと痛感しています。



■明治以後の仏教は、西洋的思考で教義を解釈しているのでは 
03年01月14日
 Senmon

 『神道はクローンによって誕生した』『クローン人間問題に対する宗教界の反応』をませて頂きました。

 言われてみると、日本の伝統宗教界の反応が、キリスト教の反応にそっくりです。でも、明治以来、日本の伝統宗教がおかしくなったのであれば、別に不思議でもないと思います。

 『仏音』(高瀬広居著 朝日新聞社)の中で、法相宗の僧侶が、五戒を捨てて妻帯・肉食を明治以降するようになったことを、喝破しています。だから、葬式宗教に成り下がったのだとも言っています。

 五戒とは、教義(適切な表現ではないかもしれません)なのだから、教義の他の部分でも、いい加減になったのではないでしょうか? 同じ法相宗の僧侶だったと思いますが、原典回帰の不必要性を訴えていました。

 サンスクリット語の仏典を学ぶことに意味はないのではないか? インド〜中国〜日本という伝播と解釈の変遷を無視したら、日本仏教のことなど何一つ理解できやしないというわけです。確かに、神仏習合なんてのは、あまりにも日本的ですので、納得してしまいました。

 それで、何が言いたいのかというと、明治以降、日本の伝統宗教の教義の解釈も、いい加減になったので、つまり西洋的思考で教義を解釈しているので、クローン人間に対する声明も、西洋的(キリスト教的)なものなったのではないかと考えられるということです。

 上手くいえないのですが、存在論の問題といったらいいのかわかりませんが、「ある/ない」ということを考える際に、東洋的(仏教的)思考では、「ある/ない」は同時に存在しますが、西洋的(キリスト教的)思考では、「ある/ない」は同時に存在することはありえません。

 こういう根本的な思考の違いが、明治以前の解釈と明治以降の解釈の違いを、実は、もたらしているのではないかと思うのです。

 何分、宗教的知識はあまりなく、聞きかじりの知識だけなので、違うかもしれませんが、なんとなくそう思いました。



■生物学的言説を神話言説に取り入れるほど、宗教を単純に考えることはできない
03年01月22日
  橋本 徹

 貴兄の論文を興味深く読みました。ただ正直に言って、ぼくの専門分野に遠いという気がしました。記紀神話については、王権の成立という文脈で読んだことがあります。特に西郷信綱の王権論に興味を持ったことを今も鮮明に覚えています。記紀が決して神話言説に収まらない。むしろ政治言説として読むのだということを学んだ気がします。もとより、記紀は、そのために編纂されたと言って過言ではないでしょう。だとしたら、宗教学的スタンスで読む場合も可能でしょうが、ぼくには、政治的な読みで記紀神話についての理解ができたと思っています。

 さて、クローンについての貴兄の論文が神学的な意味解釈と論理を構築されようとしていることに感心しました。おっしゃるようにクローン(clone)は、ギリシャ語を語源としています。その初出テキストは残念ながら読んだことがありませんが、生物学徒でないぼくには、「一個の細胞または生物から無性生殖的に増殖した生物の一群。また、遺伝子組成が完全に等しい遺伝子・細胞または生物の集団」という理解でいまは十分でしょう。その上で、貴兄の緒論に触発されて考えるのは、ラエリアン・ムーブメント教団なるものが、「人類は異星人エロヒムのクローン技術によって造られた」とか「十字架刑に処されたイエスがキリストとして蘇ることができたのも、エロヒムのクローン技術のおかげ」などというのは噴飯ものとしても、生物学をそのまま宗教言説の説明や理由付けにすることは、今日ではきわめて奇異なことでないかと考えます。

 最近、姜尚中(カン・サンジュン)が著した『マックス・ウェーバーと近代』は、宗教言説の構築に対して、興味深い指摘を各所で読むことができます。例えば次のような言説です。

  ……近代主義的なウェーバー理解をベースにした「市民社会青年型アカデミズム」の残像が色濃く、アジア諸宗教の価値的な劣性というニュアンスを受け入れやすい戦後日本の社会科学の歴史の場合、そうした「脱神話化」はより大きい意味をもっている。

 しかしそれにもかかわらず、自然を社会システムの内部に取り込む、したがって逆に言えば自然破壊を社会システムの不可欠の部分とする合理化が、一方で系統的に価値を排除しながら、他方で一種のイデオロギー的な寓話として審美的宗教やナショナリズム、あるいは原理主義を甦らせるアポリアは依然として解消されていない。このアポリアこそ、ウェーバーが引き受けようとした最大の問題であった。

 ここではウェーバーを論じるものではありませんが、ぼくは、こうした姜尚中の言説を興味深く読まざるをえないのが、ぼくたちが直面している歴史社会であると思います。つまりそれは、宗教言説が時として蒙昧な信仰を繰り返し作り出しているからです。ラエリアン・ムーブメント教団、オウム真理教などの神話は、まさにそれに該当するでしょう。

 話題を変えますが、小学校の性教育において、いまはどうか知りませんが、動物の生殖行為をもって教育するぐらいぐうたらででたらめなものはありません。性の初体験を思い出すまでもなく、 それは時にはほろ苦かったり、またある時は許されない恋の結果であったりしたものです。世間の指弾を受けることもあります。結婚も性体験に大きな比重をもっていることでしょう。つまり、性とはそのような存在であるのですね。ところが、動物の生殖と同じように(交尾行為はそうですが)理解することは、ばかげています。まして、市民社会は、そうした理解を迎えることができないでしょう。援助交際をもってしてもそれは言えるでしょう。

 そうした関心から言えば、「古事記の神々は無性生殖から有性生殖へと"進化"した」という発想はそれとして、生物学的言説を神話言説に取り入れるほど、実は宗教を単純に考えることができません。西郷信綱が記紀神話を王権という問題で読み込む意図は、そうした言説では、宗教を読み込むことはできないのだと暗に批判しているように思うのです。

 もとより、宗教は王権を確立するものではありません。しかし、逆に多くの宗教が、その呼び名はともかくとして、王権的に神学を構築してきたのではありますまいか。そこで、ぼくの感想は、ラエリアン・ムーブメント教団なるものを指弾するとともに、そのために擁護された現代医学の蒙昧さをも指弾したいと思います。そこには、胚をモノ化する資本制をも指摘できるでしょう。

 とまれ、貴兄の卓越した思考に敬意を払うとともに、ラエリアン・ムーブメント教団などの神話言説が隠蔽しているファシズム的な体質を批判的に論じることが大切だと思います。



■「もんじゅ」の地元から 
03年02月09日
禅宗僧侶

 『もんじゅ』拝読。地元の問題なので、当然ながら、私にとっても関心の大きいところです。若狭に住職してから原電とは切っても切れない生活をしているわけですから、嫌でもいろいろと考えます。

 15機もの原子炉を並べている地域はここだけですし、しかも北朝鮮のまん前に「いつでもどうぞ」状態・・・危機管理とは何なのでしょうか・・・

 装置としての軽水炉にはほとんど不安は持っていませんし、原電は現時点で必要であるとも思っています。

 原電の問題は装置の問題ではないのです。例え装置が安全であっても、政治、経済、地域住民の心理、電力会社員が地元の適齢期の女性を持って行ってしまう?ということなど・・・地元でなければ分からない問題が多々あるのです。とても一概には言えません。



■いつまでも白人の言葉を鵜呑みにしていると・・・
03年03月16日
 萬 遜樹

 『トルコをめぐる欧米の亀裂』はたいへんおもしろかったです。白色人種の深層心理を読み解いた傑作だと思います。

 トルコ人は日本人と同じですね。黄色人種だけど、第二白人待遇で。しかも白色人種の言葉を鵜呑みにして、ヨーロッパ人になれると信じて、結局のところは裏切られ続けて…。

 『桃太郎バグダッドへ征く』を早速拝読しました。主幹のトータルな知見と筆力なくして語れぬ物語といえます。おそらく、「21世紀のアラビアンナイト物語」として世に長く語り続けられることでしょう(?)。

 できましたら、現在からこの物語ができるまでの五百年間についてもご説法賜れれば、知貧しき衆生には大変有り難いのですが。いかに白色人種の世界支配が破れていったのかを。

 まじめな話、今回のイラク危機で世界の政治潮流が変わったと主幹はお考えですか。ならば、そのあたりについても是非ともご高説をお聴かせください。



■日本はアメリカの術中に見事に嵌った
 03年03月30日
         萬 遜樹

 新作『これがアメリカの常套手段だ』は、現実となったアメリカによる「対イラク戦争」という名の侵略への原理的な批判であるとともに、これまで主幹が展開されてきた反アメリカ論の総論もしくは序説となっております。初学者、つまりこれから『主幹の主観』を読んで勉強しなければならない日本の政官業そしてメディア関係者の方々用にも、たいへんよい入門論説となっていると思われます。

 さて、アメリカ「民主主義」帝国のねらいは、主幹の分析の通り、イラクでの文字通りの民主主義政権の樹立ではなく、アメリカ「民主主義」の信奉国、すなわち親アメリカ政権の樹立でしょう。そう考えてみると、主幹が最後に引用された開戦時の昭和天皇の『宣戦の詔勅』ばかりではなく、敗戦後の日本を「民主主義」にしたという意味も見えてきますね。全く以て、日本はアメリカの術中に見事に嵌ったと言わざるを得ません。そういえば、ブッシュ大統領も戦後イラクを日本のように「民主化」すると言っていました。

 それにしても、ご令息の賢明なること。トマホーク発射のテレビ映像を見て、その虚偽性を見抜かれるとは。後生おそるべし。この親にしてこの子ありですな。



■今頃になって日経新聞が米国の「宗教と政治」と採り上げ
 03年03月12日
        三阪和弘 (神戸大学大学院国際協力研究科
 三宅様が以前から発信されていた「アメリカと宗教」の関係が、日経新聞でも『結びあう信仰と政策』という見出しで記事として取り上げられていました(日経新聞、朝刊、3/12付け、頁9)。

 マスコミも緊迫した情勢を受けて、様々な角度からの記事を発信していますが、このテーマに関しては断然三宅様の方が多くの情報をお持ちのことと思われます。

 宗教と政策を結びつけた記事も、今頃になって登場している有様ですから。



■アメリカの論理なのか、勝者の論理なのか
 03年04月01日
           三阪和弘 (神戸大学大学院国際協力研究科

 『これがアメリカの常套手段だ』を拝見しました。いつも通りの研ぎ澄まされた分析、見事だと思います。

 連日、イラク関連のマスコミ報道・特集がなされている中で、改めて私が新たな知見を披露することはありませんが、上記の論稿を拝見していて、思い出したことがありますので、紹介させて頂きます。

 三宅様は、今回のイラク戦争と太平洋戦争を関連付けることにより、アメリカは日本政府に対して無理難題を押し付けた結果開戦となった、という趣旨のことを述べられていました。私はその文面を見て、旧日本軍の大本営参謀、瀬島氏の言葉を思い出したのです。

 瀬島氏は、あるテレビ番組の中で、開戦当時のことを回想しながら、「窮鼠猫をかむ」という言葉で表現されました。

 開戦当時の状況を当事者として詳細に知る人物はごく限られており、その方が発せられた上記の言葉は、とても重く何とも言いようのないものとして印象に残っています。

  あともう1点、申し上げたいと思います。

 三宅様は、「結果として戦争に勝てば、それは卑怯な行為ではなくなり、負ければ、全ての行為は「不正義であった」と断ぜられるのである。

 これが、圧倒的な軍事力を有するアメリカの論理である。」と述べられていますが、この論理は、アメリカの論理というようよりも、勝者の論理といえるのではないでしょうか。

 例えば、明治維新を見た場合、我々日本人は坂本竜馬や西郷隆盛、勝海舟らを維新の英雄と見なしていますが、当時開国をせまったアメリカから見ると、維新時に活躍した人物は上述の人物らではなく、井伊直弼や小栗忠順(ただまさ)らだったらしく、我々が教科書で学んだ歴史とは全く違っていたということも、そのことを示唆しているといえるでしょう。

 実はこのような例は歴史上枚挙に暇がないのです(その他の例としては、淀君、石田三成、明智光秀らに対する過小評価が挙げられます)。

  「歴史は勝者によって作られる」これこそが真実ではないでしょうか。今回の戦争もアメリカが圧勝した場合、いずれ卑怯な行為や不正義は忘れ去られ、後のアメリカの歴史家によって、きれいな歴史へと塗り替えられてしまうことでしょう。

 太平洋戦争についても、敗戦国である日本やドイツはひたすら謝罪に明け暮れたのに対し、原爆を投下したアメリカは未だに“原爆投下は戦争終結を早めた”と評価さえすれ、否定はしていないのです。

 多くのアメリカ人が広島、長崎の原爆資料館を訪れて初めて原爆の恐ろしさを知ったという話を聞くにつれ、何ともいいようのない気持ちに襲われるのは私だけではないでしょう。

 アメリカが強国である限り、そして徹底的に敗れない限り、自国の侵略行為を反省する日が訪れることはないでしょう。

 反戦は当然のこととして、この理不尽な戦争が1日も早く終結することを願いながら感想を終わりたいと思います。



■日本はアメリカの術中に見事に嵌った 
  03年03月30日
萬 遜樹

 新作『これがアメリカの常套手段だ』は、現実となったアメリカによる「対イラク戦争」という名の侵略への原理的な批判であるとともに、これまで主幹が展開されてきた反アメリカ論の総論もしくは序説となっております。初学者、つまりこれから『主幹の主観』を読んで勉強しなければならない日本の政官業そしてメディア関係者の方々用にも、たいへんよい入門論説となっていると思われます。

 さて、アメリカ「民主主義」帝国のねらいは、主幹の分析の通り、イラクでの文字通りの民主主義政権の樹立ではなく、アメリカ「民主主義」の信奉国、すなわち親アメリカ政権の樹立でしょう。そう考えてみると、主幹が最後に引用された開戦時の昭和天皇の『宣戦の詔勅』ばかりではなく、敗戦後の日本を「民主主義」にしたという意味も見えてきますね。全く以て、日本はアメリカの術中に見事に嵌ったと言わざるを得ません。そういえば、ブッシュ大統領も戦後イラクを日本のように「民主化」すると言っていました。

 それにしても、ご令息の賢明なること。トマホーク発射のテレビ映像を見て、その虚偽性を見抜かれるとは。後生おそるべし。この親にしてこの子ありですな。



■戦時のアメリカでは「言論の自由」が保証されていない
  03年04月04日
         三宅善信 (レルネット主幹)

 私が一番気になるのが、アメリカにおける「言論の自由」が保障されていないということです。もちろん、一般庶民レベルではたいしたことはないでしょうが、ちょっと社会的に影響力のある人には、相当の圧力、もしくは、自主規制せざるを得ないプレッシャーがかかっていると思います。

 CNNのアーネット記者の解雇や、マドンナのビデオクリップの発売停止等、影響は多方面にわたっていると思います。アジアや中南米の多くの国を「全体主義・独裁政権」呼ばわりする「自由の国アメリカ」の実態がこれですから、あきれたものだと思います。

 マスコミも、せめて「形式だけでも中立」(本当の意味での「中立」などあり得ないことは承知してますが)を保てば良いものを、視聴率欲しさにFOXなんか完全にアメリカ礼賛の番組構成で、これなんか、「報道」の名に値しません。まだ、アルジャジーラのほうがましです。

 日本に住んでいると、NHKのBS放送で、毎日、数時間、世界各国のテレビニュース(ヘッドライン)をわざわざ日本語に翻訳して放送してくれます。通常は、アメリカのABC、韓国KBS、フィリピンABN/CBS、中国CCTV、タイ国営放送、英国BBC、スペイン国営放送、フランスF2、ドイツZDF、ロシアRTRといった具合です。それ以外にも、現在のような中東戦時には、アルジャジーラ他のニュース、それから、SARS(新型肺炎)関連で、香港のATVなど・・・。これらを見比べると、同じ問題が、それぞれの国によって、いかに違った観点から報道されるかが判って大変興味深いです。

 もちろん、こんなことはアメリカのメディアには期待できませんが・・・。今回の「対イラク侵略戦争」に対するアメリカ各局のタイトルの付け方が興味深いですね。確か、ABCは『War with Iraq』で、CNNは『War in Iraq』で、FOX が『Operation Iraqi Freedom』、これらの問題(メディア操作)についても、いづれ作品を上梓するつもりです。

 日本では、世界各国の反戦運動のほうが、大きく採り上げられているようです。
 
 それから、「たいまん勝負」についてですが、たしか10年ほど前の映画『Hot Shot 2』(チャーリー・シーン主演)のクライマックスシーンで、フセインのそっくりさんのところへ(『Naked Gun』シリーズの主演の人が演じる)合衆国大統領が、乗り込んで、たいまん勝負するシーンがありましたね。

 しかし、チャーリー・シーンの父で、平和運動家の役者マーティン・シーンが『The West Wing』で、合衆国大統領の役を演じているのも、皮肉っぽくて良いですね。

(増田裕昭氏の『アメリカでの反戦活動は日本で報道されているか』への回答)



■偵察衛星から逃れる術
   03年04月19日
         萬 遜樹

 『日本核武装計画が動き出した』を拝見しました。人気者とはつらいものですね。いつもいろんな「方々」から取材され追跡されて。真実を伝道されているにすぎないのに。これではお心を休める暇もないでしょう。

 にもかかわらず、いつも思うのは、主幹の寛大なるお心です。独裁者の皆さまをただ脅すだけではなく、今回も皆さまにちゃんと「偵察衛星から逃れる術」を教えることをお忘れない。あまり良い褒め言葉ではありませんが、まるで偉大なる首領様のような寛いお心に感じ入っております。



■弱い立場の人々と戦争の関係
 03年05月09日
         三阪和弘 (神戸大学大学院国際協力研究科)

 『実はアメリカ市民権獲得戦争』を拝見しました。本文中の記述にあった、グリーンカード兵士の存在は、恥ずかしながら、知りませんでした。移民国であるアメリカらしい制度ですね。

 三宅様がご指摘のように、「弱い立場の移民を、使い捨ての兵士」とするこの仕組みは、許しがたいものに相違ありませんが、「弱い立場」ということに限っていえば、この問題はアメリカだけのものではないと思っています。

 私が約10年前から、研究対象としてやNGO活動に参加するなどして、関わったことのあるスリランカでは、1983年以来内戦が断続的に行われていました(現在は停戦中)。

 その際の兵士は、概ね貧困に苦しむ農村地域の人々だったようです。スリランカは長年にわたり、失業率が2桁以上だったため、雇用機会に恵まれず、そのため兵士に志願する者が多かったようです。

 村人たちは「彼らは勇敢だから」と言ってはいましたが、肉親の写真を大事そうに見せてくれる彼らの顔を見ていると、それが本心でないことはすぐに理解できました。

 戦争の際、イラクやアフガニスタンの場合も当てはまると思いますが、多くの場合最大の被害を受けるのは、貧困層でしょう。

 そして、心ならずも最大の加害者となるのも、兵士として現地に向かう彼らでしょう。

 また、場所が代わって中国の場合でも、徴兵制はあっても実質的には富裕層や高学歴層は免れているらしく(中国人留学生の話)、多くの兵士は雇用機会に恵まれない層であるらしいのです(中国の場合、人口超大国であるため、韓国とは異なり、必ずしも全員が徴兵を受けるわけではないそうです)。

 上述のような事情を鑑みても、兵士としての人材は、「弱い立場」の人間に皺寄せが集まるといえるのではないでしょうか。

 アメリカに兵士として集まる多くの移民も、その根源には経済的事情があることは容易に想像でき、その意味からも、世界から貧困層が消滅しない限り、問題の根本的解決にはつながらないと思えてなりません。

 恵まれた国、時代に生きる我々にとっては、理解しがたいことですが、改めて「弱い立場」の人々と戦争との関係を見つめ直してはいかがでしょうか。



■人間の独断を戒める、宗教家の面目躍如
  03年05月29日
         萬 遜樹

 『自由の代償としての文化破壊は許されるか』は、三宅さんのバランス感覚が実によく表れた評論だと思います。

 仏教の人生観に、今の人生を輪廻の一途上と捉え、次なる未来にも責任を持たねばならないとするものがありますが、過去・未来の人間の意見も必要だという考え方はこれに通じるものがあると思います。現在だけにしか目が行き届かぬ人間の独断を戒める、宗教家の面目躍如です。

 また、ネストリウス派キリスト教の将来の弾圧を危惧されるあたりにも金光教の宗教的平等観が示されていて感心しました。



■「中国」に関する逆差別という日本での抑圧
 03年05月30日
         萬 遜樹

 『SARS問題にみる誰も語らない中国』は、単刀直入にものを言う正義・公正を求める論です。「中国」に関する逆差別という日本での抑圧をあぶり出す内容にもなっています。

 実際、特になぜカナダのトロントで? ということは案外論じられていません。逆に、中国系カナダ人への偏見・差別だという記事ばかり目立ち、「中国」擁護が先行し、事実を隠蔽していますね。これでは有効な対策もおぼつかないでしょう。

 それから、三宅さんの記述を拝見しますと、椅子生活による床への無頓着やつばをはくことなど、中国人は日本人よりむしろ欧米人に近いことを強く感じますね。一説では、SARSは中国人のDNAに有効な新生物兵器だとのうわさもありますが、この中国式排泄慣習ではそれ以前の話かと思いました。



■間違いだらけの『実はアメリカ市民権獲得戦争』 
03年05月30日
    Mike

 記事を読みましたが、間違いだらけのデタラメ。グリーンカード兵士の数37,000は、中東派遣軍
内の数ではなく、全米軍内の数。従ってグリーカード兵士が全米軍に占める比率は、18.5%なんてい
う一目瞭然に間違いな比率ではなく、3%です。

 さて、なぜグリーカード保持者が米軍に入隊するのか?この記事が完全に見落としているのは、
一旦グリーンカードを取得すれば、通常およそ5年待てば市民権はグリーンカード取得に比べればは るかに容易に取得できる点です。グリーンカードは親類縁者、あるいは雇用主がいなければ取得でき ません。ところが一旦永住権を取得すれば通常5年待てば誰の許可も得ずに自ら市民権を申請できま す。従って、「市民権となると「高嶺の花」そのもので、ほとんど不可能となってしまったのである」 というのは全くの間違い。市民権取得まで5年も待てないという人がいて、米軍に入隊してすぐ取得 したい、という人もいるでしょう。それのどこが悪いのですか?その人の選択ではないですか?

 市民権取得が早まる、以外にグリーンカード保持者が米軍に入隊するメリットはないのです。
では彼らはそれでもなぜ入隊するのか?彼らの動機はむしろ他の一般の米国市民の入隊者の動機と 同じだと思います。たまたま副産物として市民権取得が早まる、というのがついてくる、と考える のが妥当であり、実際だと思います。

 「グリーンカード兵士」について誤った情報が一人歩きしているような気がします。



■市民権獲得を餌に兵隊を募集しているのは事実
 03年05月31日
  レルネット主幹 三宅善信

 4月18日に上梓した『実はアメリカ市民権獲得戦争』に対するMike氏から寄せられた5月30日付の批評『間違いだらけの「実はアメリカ市民権獲得戦争」』を拝読いたしました。レルネット誌上において、いろんな立場からの建設的な批判が百花斉放することは、レルネット本来の狙いであり、こういった意見が寄せられることは、サイトの主宰者としては、喜ばしい限りであります。

 しかし、本件についてのMike氏のご批評にある「間違いだらけ」というご指摘の意味が、私には、今ひとつ理解しがたいところがあります。というのも、ハッキリと具体的にMike氏と「事実」認定が異なるのは、「グリーンカード兵士の米軍全体に占める比率」に関する数字の部分だけであって、それ以外の部分については、ある特定の「現象」についての「解釈(意味づけ)」の違いであって、当然、そのことは十分に想定されるからであります。ちょうど、目の前に、味噌ラーメンと醤油ラーメンがあって(この部分が、「事実」認定です)、このどちらを「好き」というか、あるいは、どちらを「美味い」というかは、人の数だけ答えがある訳で、たとえ自分と異なる「好き嫌い」に関する意見があったとしても、これを「間違いだらけ」と認定するのは方法論的に適正を欠いていると思います。

 Mike氏によりますと、「なぜグリーカード保持者が米軍に入隊するのか?この記事が完全に見落としているのは、一旦グリーンカードを取得すれば、通常およそ5年待てば市民権はグリーンカード取得に比べればはるかに容易に取得できる点です。」とありますが、私も「グリーンカード保持者が(他の一般米国市民に比べて遥かに多い比率で)入隊する理由は、合衆国市民権を早く、容易に取得したいからだ」と述べていると思うのですが…。このことのどこが、問題なのか分かりません。

 それから、「市民権取得まで5年も待てないという人がいて、米軍に入隊してすぐ取得したい、という人もいるでしょう。それのどこが悪いのですか?その人の選択ではないですか?」というご意見についても、「グリーンカード兵士の入隊の動機が悪い」などとは、ひとことも書いておりません。私が、批判しているのは、「1日も早く、合衆国の市民権を取得したい」という切実な願いを持っている移民の弱みにつけ込んで、使い捨ての兵士を集めようとしている合衆国政府の浅ましい行為についてであり、それを「崇高な目的のための戦争」などと、自己正当化しようとしている米国の魂胆についてであります。

 本件について、「客観的な目」で、Mike氏と私の両方の意見をお読みになられた読者からのご意見をお待ちいたしております。



■日本人には善悪以上に浄・不浄が判断基準
03年06月01日
 萬 遜樹

 『白装束集団にみる誰も語らない日本』は、マスコミ(つまりは国民)批判と日本人の「浄・不浄」観を組み合わせた注目すべき論考です。まず、マスコミは視聴者の覗き趣味の代行者に他ならないことをこれからも大いに論難し続けなければなりません。

 これとも通じ合いながら、日本人の「浄・不浄」観は現代においては問題が多いですね。公害問題時には大いに話題になった、汚染された魚はいつの間にかいなくなってしまい、つい近年も狂牛病による「焼き肉忌避」運動もいつの間にか収束してしまいました。政治経済的な大問題も誰も話題にしなければ、問題そのものが存在しなくなったと見なされます。まったく、台風一過のようです。おそらく構造改革や不良債権問題すら、この運命を免れませんでしょうね。ヘーゲルの「現実的なものこそ、理性的なものである」は、日本人の哲学なのでしょう。

 なお、生と死の「白装束」の問題指摘は大変刺激的です。私は白装束を着ることは「脱日常」と解釈します。彼らは、死の覚悟というよりも、ケの日常を超越して生きているつもりなのでしょう。彼らなりに「穢れなき=不浄の生活」を送るための防災服=宗教装束=制服があれなのでしょう。

 そういう彼らも含め、日本人には善悪以上に浄・不浄が判断基準ということは大いに頷けます。ご指摘の通り、そこには憲法もへったくれもありませんのですから。問題の集団や人間をただ追いやることが「地方自治」とはお寒い限りです。原発や基地問題も実は同じ構造ですね。エイズ・SARSも同じで、結局は映画『リング』と同じケガレの問題です。



■病気と宗教は似ている
 03年06月02日
萬 遜樹

 『スーパー・スプレッダーがいればこそ』からは、人間というものの広がりを感じました。世界はおそらくそういうふうに出来ているのでしょう。

 SARSに関しては、日本の城研究(?)の台湾人医師もそうですが、トロントの感染にもそんな人が「活躍」したと聞きます。ここから、宗教の布教活動に思い至られるとはさすがは三宅さんです。事実、そのようにしていまに続く宗教集団は拡大したのでしょう。

 病気と宗教は似ているとも言えるわけです。正負の価値づけは逆ですが、これも「ケガレ」かも知れませんね。



■鳥取県知事による「東芝ボイコット宣言」騒動への評価
03年06月11日
レルネット主幹 三宅善信

 昨今、地方分権をめぐる「三位一体改革」(註:「三位一体」論そのものについては、いずれ稿を改めて論議したい)なるバカげた「官官論議」が、政府と地方自治体の間で闘わされているが、このほど、「政府の『地方分権改革推進会議』(議長:西室泰三東芝会長)が地方税・財政の『三位一体改革』に関して、地方への税源移譲を先送りしたことで、鳥取県の片山善博知事は9日付けの毎日新聞によると、『地方の財政基盤を“拉致”するような行為』などと批判、西室議長が会長を務める東芝と県との取引を中止する対抗手段を取ることを明らかにした。」そうであるが、そのことが各方面へ投げかけた“波紋”の程度の低さに、あらためて驚かされた。

 まず、本件(片山鳥取県知事の「東芝ボイコット宣言」)に対して、「多くの批判のメイルや電話が鳥取県庁に寄せられた」という報道がバカげている。民主主義における民意の反映の方法は、公職選挙法に基づく「選挙(もしくは住民投票)」しかない。賛否のメイルなんぞ、数万人の社員を抱えているであろう大東芝が、1人10通づつ送らせれば、アッという間に小鳥取県のサーバーくらいいつでも落とせるほどの「抗議文の山」を築くことができるであろう。こんなことくらい判らないマスコミではあるまい。否、自分たちがいつも使っている「世論調査」なるインチキ民主主義の手段を正当化するためにも是非、必要な「民意の集約」なのだろうか?

 次ぎに、本件を受けての片山虎之助総務大臣による10日の閣議後の記者会見がまたお粗末である。時事通信によると、「会議の意見に影響力があるわけではない」と強調し、「そう怒らなくても。どうってことはない」となだめた、そうである。担当の閣僚が、政府の「地方分権改革推進会議」について、たとえ、それが、「審議会」や「諮問会議」といった、役所にありがちな「形だけのもの」であったとしても、それを当の政府閣僚が「会議の意見に影響力があるわけではない」なんて言ってしまっては、まさに「それを言っちゃお終いよ」である。

 さらに、筋違いなのは、日本経団連の奥田硯会長(トヨタ自動車社長)の「政府の委員会の責任者となった企業の会長や社長のやり方がけしからんから不買運動をされては、民間人のなり手がいなくなる」と述べ、片山知事の発言を批判した(時事通信)という意見である。「世界のトヨタ」の経営者の弁とは思えないお粗末さである。「不買運動」が恐ければ、そんな準“官職”なんぞに、就かねば良い。某巨大教団による「不買運動」を恐れて、正面切って、教団批判のできない大新聞やテレビ局と同じ論理である。それに引き替え、毀誉褒貶なんでもなりの週刊誌の元気なこと・・・。

 どうせ、政府の審議会なんぞ、御用学者か政官癒着の大企業のトップもしくは「ものわかりの良い」労働組合の連中ばかりが、官僚の用意した線に沿った答申を出すのに決まっている。審議会の委員になったからといって、なんら「得」にならない人を委員に選ぶべきである。

 そういう準“官職”に就かなきゃ貰えない“勲章”もみなインチキである。前々から、指摘しているように、もし、政府(地方自治体でも)が、なんらかの政策の方針決定の参考にするために「民間人の英知を結集したい」と本気で思っているのなら、この私を審議委員の一人に指名するはずである。さもなければ、この国の現状を救うことなんぞ絶対に不可能だ。もし、私に「三顧の礼」をもって出座を願う審議会があれば、その審議会こそ「本物」の審議会であることを最後に付け加えて、本件についての感想としたい。



■t.A.T.u.どたキャン騒動とテレ朝の正体
03年06月28日
レルネット主幹 三宅善信

 昨夜(6月27日)、久しぶりに夕食時にテレビを視た。スイッチを入れたら、ちょうど、テレビ朝日系列の『ミュージックステーション』なる番組が始まり、来日中のロシア人歌手(註:昨今は、「芸人」のことを「アーティスト」と呼んで、腫れ物に触るような扱いをするようだが、あんな連中は、所詮は、金をもらって人前で「芸」を見せる猿回しと大差ないと、私は思っている)『t.A.T.u.(タトゥー)』なる2人組の小娘(註:どう見ても、駅前で屯しているそこら辺の「ジベタリアン」のガキと変わらない)が写っていた。もちろん、私は、t.A.T.u.の存在は知っていたし、「お騒がせ」芸人であることも知っていた。

  番組の冒頭で、司会のタモリが冴えない質問(註:t.A.T.u.の「制服」とも言えるチェック柄の「ヒップハングのマイクロミニから見えそうで見えない」といった主旨の内容。タモリも遠来のゲストに、もっとましな質問はできないものか…。そもそも、たいした歌唱力がある訳でなく、美形でもない彼女らの「売り」は、人にチチやケツを見せてなんぼのはず)を通訳を会してしていた。オープニングで話題のt.A.T.u.を画面に露出させて、「いつ出るか何時出るか?」と視聴者に期待させて、実際には、番組の最後まで引っ張って視聴率を稼ごうという魂胆丸見えの番組構成であった。因みに、この日、番組に出演して(画面に映っていた)いた連中で、私が名前と顔を知っていたのは、司会のタモリだけであった。

 それから延々と、素人の学芸会と大差ない出演者(註:こんなくだらないことに公共の電波を使うこと自身、ただ国民を白痴化させるだけしか効果がないので、即刻、法律で禁止しても良いくらいだ)の「芸」(註:「本芸」の歌や踊りもパッとしなければ、「歌手」たちの「しゃべくり」のセンスのなさ(=頭の悪さ)なんか、小学3年生の愚息より、遥かに劣る)を見せられ辟易していたところへ、面白い「事件」が起こった。番組の最後に歌うはずの「t.A.T.u.が出演を拒否して、楽屋から出てこない」というのである。当然である。私だって、こんなレベルの低い番組には出たくない。テレビ朝日のスタッフは焦りまくり、司会のタモリも完全にしどろもどろになっていた。急遽、出演者の順番を入れ替えたりして、その場を凌いで、なんとか「テレビ朝日側は出演をお願いしてる」というポーズは取っていたが、その実態は、欺瞞に満ちたものであった。

 20:40の時点でも、CMに入る前には「次は、いよいよt.A.T.u.が」といった趣旨のスーパーが流れていたし、20:45の時点でも、タモリは「何が気に入らなかったのでしょうかね? まだ、出演をお願いしているのですが…、t.A.T.u.は楽屋から出て来られないそうです」などと言っていたが、実際には、20:30の時点で、t.A.T.u.は、テレビ朝日のビルを出ていたそうである。もう、居なくなった(出演の見込みがなくなった)ものを、あたかもまだ居るかのごとくに言って、その後も番組を見させ続けようとした。つまり、テレビ朝日は、視聴者を二重に欺いたのである。

 もし、t.A.T.u.(のプロモーター)と本気でやりとりしているのなら、楽屋で「出る。出ない」の押し問答をしている場面をこそ、生中継すべきであったのではなかろうか? そのほうが、滓みたいな芸人の歌やトークを聞かされるよりも、ずっと面白いし、視聴率も稼げたのではないか。少なくとも、日露の文化の違いや、テレビ会社というものが、いかに「強い者に弱い(弱い者に強い)」かが視聴者にもつまびらかになったことであろう。そもそも、テレビ朝日は、t.A.T.u.側とどういう出演契約をしていたのか疑問である。もし、相手側に「契約違反」があれば、堂々と損害賠償を請求すればよい。一般企業の株主総会での「情報公開への取り組みが不足している云々」というニュースをしたり顔で流す前に、「己の会社の情報を公開しろ!」と言いたいのは私だけではあるまい。

 その意味で、今回の事件で、私はt.A.T.u.を褒めてやりたい。ひょっとしたら、テレビ朝日だけでなく、遅々として北方領土の返る兆しすら見えない「日露交渉」(註:もちろん、「拉致被害者」の返らない「日朝交渉」も同じ)を行っている外務省も同レベルなのかもしれない。外国と交渉するときは、「北方領土問題」で言えば、ともかく、「即時無条件返還」から「条件付き(漸次・有償)返還」あるいは「戦争して取り返す」まで含めて、あらゆる可能性を含んで交渉しなければ、相手から軽く視られる(いつまで経っても成果が出ない)のである。そのことを、日頃は政治のことなど考えてもしない日本の若者たちに、ロシア人という民族のあり方と不甲斐ない日本を垣間見せてくれたのだから…。

「29日の日曜日に、境内で歌のプロモーション撮影をさせてほしい」との電話での依頼(註:知らない人にものを頼むときは、紹介者(仲介人)を立てて、菓子折を直接持参して頼むのが常識。そんなことも知らないのが、この国のテレビ関係者である。「テレビ撮影」と言ったら、誰でもが「恐れ入って」協力すると思うのは大間違い)を断った芝増上寺の見識を買いたい。側聞するところによると、増上寺のお坊さん(担当者)が、ただt.A.T.u.なる歌手の存在を知らなかったからだけだという説も流れているが、それでも正解である。英語版の『Google』で、検索してみれば、「t.A.T.u.」は約703,000件に対して、「Tamori」はわずか6,500件しか項目がないのであるからして、いくら「長寿番組の司会者としてギネスブックに載った」とはいえ、t.A.T.u.から見れば、「ちょろい相手」と思われたのかもしれない。因みに、同じ英語版『Google』で「Yoshinobu Miyake」を検索すれば、なんと、1,250件も項目がヒットした。もう少し頑張れば、タモリに勝てる?


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